織田信長といえば、後の豊臣秀吉となる羽柴秀吉、本能寺の変で知られる明智光秀の二人が連想される人も多いと思います。
大河ドラマやさまざまな映画で描かれる織田信長は、相手の気持ちを推し量ることなく気分屋の気性を持つサイコパスのような人物像が多く、豊臣秀吉や明智光秀にも理不尽な対応をしていたことが想像されます。
しかしながら、少なくとも本能寺の変までは、織田信長の家来として支えていた二人ですから、それなりの関係が築かれていたと考えられます。
織田信長と本能寺の変を引き起こしたとされる明智光秀の関係、子孫達に残されたものなどを紹介します。
織田信長と明智光秀の関係は?
明智光秀は、明智光綱の子として美濃に生まれ、失業して全国を巡って職探しをしていた状態を織田信長に家来としての処遇を与えられています。
織田信長は、当時としては珍しく、優秀な人間であれば出身を問わずに採用していて、明智光秀や豊臣秀吉の採用をみれば明らかです。
超合理主義の織田信長からすれば、豊臣秀吉や明智光秀の家来としての能力を評価して処遇しているものの、使えなければいつでも切り捨てることに躊躇はなかったと推測できます。
しかしながら、織田信長への感謝を子孫達も忘れてはいけないという趣旨の明智光秀の言葉が残されており、明智光秀は、織田信長との主従関係以上に、尊敬や感謝の念を抱いていたことが推測されます。
明智光秀の子孫には?
明智光秀が謀反人として敗北したことで、正確な歴史的資料が残されておらず、江戸元禄に書かれた明智軍記や、明智系図の表記でも内容に差があります。
明智光秀の子孫については、明智軍記では三男四女、明智系図では六男七女(二人は養女)といった表記が確認できます。
明智光秀の子供の中でも有名な人物は、細川忠興の正室となった三女の珠(たま)で、細川ガラシャとして知られています。
細川忠興と珠との間に生まれた細川忠利が、肥後熊本藩藩祖となり、幕末まで細川家が継承されています。
明智家子孫の明確な歴史的な資料はないものの、細川ガラシャの存在から、細川隆元や細川隆一郎、細川護熙といった末裔の人物の存在が確認でき、坂本龍馬の紋には明智と同じ物があるため、子孫ではないかという小説や解説もみられます。
織田信長と明智光秀の主従関係には?
織田信長と明智光秀の主従関係は、織田信長の当時としては珍しい、家柄ではない実力主義による登用で生まれた処遇です。
そのため、明智光秀の織田信長に対する感謝と尊敬の念は、子孫に対して信長様への感謝を忘れてはならないと残すほど、強いものが感じられます。
その一方、本能寺の変を画策した明智光秀の行動を勘案すれば、織田信長のサイコパス的な人間性も想像できます。