織田信長は、1534年の5月に尾張国の織田信秀と正室の土田御前との間に嫡男として生まれます。
信長の父信秀は、尾張守護代の織田大和守家に仕える分家の一人であったものの、軍事的才覚とともに優れた経済力を持っていたために、僅か2歳の信長を那古野城の城主としたことでも、その財力は推測できます。
子供時代の織田信長には、「尾張の大うつけ」と呼ばれた信長の家臣が書いた「信長公記」にも記されるほど、奇妙な行動が多かったようです。
ボンヤリしたという意味もある「うつけ」と呼ばれた織田信長の子供時代を紹介します。
織田信長の子供時代は?
織田信長は、父信秀の三男(次男という説も)として生まれ、幼名は吉法師(きっぽうし)といわれています。
信長の家臣である太田牛一が書いた「信長公記」には、入浴時に着る湯帷子を普段着にし、袖は脱ぎっぱなし、まげは毛先をツンツンにして、茶道で使う茶筅のような結い方で、しかも派手な色で巻くといった格好が記されています。
また、乳児の時には、乳母の乳首を噛み切ったために、何人も乳母を交代させ、子供時代には、身分を気にせず庶民と一緒に遊び、柿や瓜をかじりながら街中をお供に寄りかかりながら歩いた態度といったことも記されています。
今の時代でいう思春期にグレたヤンキーのように、周囲の常識的な服装をせず、だらしない格好で街をふらついていたと想像できます。
「尾張の大うつけ」と揶揄されたのは?
織田信長を「尾張の大うつけ」と周囲の武将たちにも認知されたのは、父信秀の葬儀の際に、奇妙な格好で現れたうえに、焼香を位牌に投げつけて帰ってしまい、葬儀の場とは思えない振る舞いによるものです。
織田信長の子供時代に、身分を気にせず遊ぶことができたことが、農民出身の秀吉の登用や仕事を探していた明智光秀といった人材採用などの要因となっていると考えられます。
その一方で、子供時代の粗暴な振る舞いは、母親である土田御前の愛情が弟に偏っていたためとも言われ、時代が違っても、親の愛情の感じ方が子供へ影響したようです。
破天荒な子供時代を過ごした織田信長
「尾張の大うつけ」と呼ばれるほど、周囲とは違う変わった格好で、お供に寄りかかりながら柿や瓜を食べながら歩いた織田信長は、現代のグレた少年のような子供時代を過ごしていることが、「信長公記」にも記されています。
乳児の時にも、乳母の乳首を噛み切るなど、破天荒な子供だったことが記され、父信秀の葬儀の際の格好と振る舞いが、礼節を重んじる弟と比較されたことでも、周囲から「尾張の大うつけ」の烙印を押されます。
子供時代に身分の違いを気にせず庶民と一緒に遊び、それまでのしきたりや習わしに従わない姿勢は、尾張統一後に天下統一を目指した織田信長の資質だったのかもしれません。