織田信長は、大坂の石山本願寺と約10年の長期間にわたり戦っています。
石山本願寺は一向宗(浄土真宗)の本山として大坂の石山にあり、織田信長との戦いは石山合戦と呼ばれ、この戦いが長期化した訳や、信長がなぜ固執したのかなど、謎があります。
織田信長は、あやふやな慣習や伝統、宗教を悪利用する僧侶を嫌うなど超合理主義者であり、その点からすれば、石山合戦を長期間継続したことは不合理にも感じられます。
織田信長と石山本願寺の戦いの理由や長期化した訳について紹介します。
織田信長と石山本願寺の戦いが始まった訳は?
織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、石山本願寺に対して5000貫の支払いと本願寺の明け渡しを要求し、この要求に対して石山本願寺は、軍資金として要求金額を即支払って恭順の意を示します。
しかし、立ち退きに関して石山本願寺は、対応を曖昧にして織田信長との交渉を避けていたものの、二年後に突然、信長軍に対して攻撃をはじめます。
石山本願寺が織田信長に対する攻撃を選択したのには、三好三人衆ら旧勢力に付き添っていた門徒衆の不満を一時的にも解消する目的があったと考えられます。
織田信長が大坂の石山本願寺に固執した理由には、その立地が戦略拠点として重要であったことと、石山本願寺に織田信長の軍勢に対抗できる軍事力が備わっていて、いきなりの攻撃を受けたことに怒りを感じたと考えられます。
織田信長と石山本願寺の戦いが長期化したのは?
織田信長と石山本願寺の戦いに長期化した理由には、織田信長が大坂の石山本願寺の軍事力を低く評価していたためです。
織田信長の認識では、宗教組織である一向宗の本山としての石山本願寺の武功が大したことがなく、組織の上層である本願寺を叩ければ下部組織の抵抗を受けないと予測していたはずです。
石山本願寺は、大坂湾に突き出した半島に位置し、海側の一箇所を防御できれば、戦術的には他の土地にはない有利な条件が揃っています。
裏を返せば、領土として獲得できれば、その後の海路での交通拠点としての利用が期待でき、商業や物流の起点となる場所を確保でき莫大な利益も期待できます。
そのため、織田信長と石山本願寺の戦いがはじまり、長期化しても比叡山延暦寺のような焼き討ちという結果にならなかった理由かもしれません。
織田信長と石山本願寺の10年に及ぶ戦い
織田信長が石山本願寺との戦いに固執したのには、大坂湾に突き出した半島に位置した場所にあり、戦場としての有利性に加え、その後の海上交通起点としての重要度、商業的な利用価値の高さを見越したものだと考えられます。
石山本願寺が比叡山延暦寺のような結果とならなかったのには、織田信長にとって石山本願寺の僧侶に対する怒りがそれほどのものではなく、宗教的な意味合いを多少なりとも考慮したためかもしれません。