現代での人とのコミュニケーションには、メールやラインなどデジタルデバイスを多用した文字でのやり取りがありますが、戦国時代にも書簡や手紙といった文字でのやり取りが残されています。
ドラマや映画で描かれる織田信長のイメージは、現実的で合理主義者といった人物像が浮かび、諸大名などに対する対応も堂々たるものかと思われますが、上杉謙信などにあてた手紙では、そのイメージとは違う人物像が浮かび上がります。
上杉謙信においても、さまざまに残された書簡や手紙によって、史実に残された功績だけではない人物像が想像できます。
織田信長が上杉謙信へあてた手紙から考えられる二人の関係性を紹介します。
織田信長が上杉謙信に宛てた手紙とは?
織田信長は戦国時代において、天下布武をかかげて天下統一を目指した武将で、武田、上杉、毛利などの諸大名と戦い、どんな相手にも強気の姿勢を崩さない印象があります。
しかし、織田信長が上杉謙信に宛てた手紙では、極端にへりくだった表現を使い、洛中洛外図や源氏物語の屏風などを送ってゴマをすっていたこともうかがえます。
その反面、家臣に対して「謙信のこの阿保。」といっていたという記録も残されていて、実際には織田信長が上杉謙信を嫌い、軽蔑していたことが推測できます。
織田信長にとって、上杉謙信と武田信玄に対して強い緊張感を持っていたといわれ、相手との距離感と関係を保つために手紙を利用していたと考えられます。
上杉謙信の織田信長に対する評価は?
織田信長から手紙や屏風を受け取った上杉謙信が喜んだ記録は残されているものの、織田信長が京都を獲ったと自慢した意味が込められていたと解釈する向きもあり、謙信の信長に対する直接の評価は、手取川の戦いを終えて下されたと考えられます。
上杉謙信と柴田勝家を大将とする織田軍が戦った手取川の戦いで、上杉が勝利しており、その時に「実際に戦ってみると織田軍は弱い。」という謙信の発言が残されています。
上杉謙信が家臣の両親に宛てた手紙には、家臣の両親を気遣い、直筆で母親が読めるようにかな文字を使うといった配慮がなされ、上杉謙信の手紙からは織田信長とは違う優しさや気遣いが感じられます。
織田信長と上杉謙信が書いた手紙からわかることは?
織田信長が上杉謙信に送った手紙からは、信長の謙信に対する緊張感と相手との距離感を保つための手段として利用していた感があります。
そのため、織田信長の上杉謙信に対する手紙の文面と家臣に言ったとされる言質の記録には、謙信に対する心情と手紙の文面に差が感じられます。
一方の上杉謙信が家臣の両親宛てに出した手紙からは、謙信の優しさと気遣いが感じられます。
戦国武将としての戦績からも、織田信長が上杉謙信を脅威に感じていたことは想像でき、謙信も手取川の戦いまでは織田信長に対して、それなりの強さを想像していたと考えられます。