織田信長にとっての桶狭間の戦いを簡単に説明

織田信秀の死によって、織田信長と弟の間の後継者争いに決着をつけ、尾張全土を平定することに約8年を費やした織田信長は、その翌年に桶狭間の戦いに臨みます。

駿府を治める今川家は、今川義元の代で最大の領地を保有し、武田家と北条氏と政略結婚によって縁戚関係を築き、三河も属国化します。

今川の領地と隣接する尾張への侵攻を始めたことで、織田信長は出撃するか、清洲城で籠城するかを決めかねます。

4万ともいわれる今川軍に対し、約10分の一の軍勢で勝利を挙げた織田信長の戦い方などについて、簡単に説明します。

桶狭間の戦いとは?

桶狭間の戦いとは、1560年6月12日に2万5000人の兵を率いて駿府から尾張に侵攻し、現在の名古屋市緑区にある窪地である桶狭間において、織田信長の約3000の兵が迎え撃ちます。

兵士の数では圧倒的に有利だった今川義元でしたが、その10分の一の兵力の織田信長が簡単に勝利し、今川義元の首を取ります。

少数の兵力で勝利した織田信長の名前が全国区となり、後世にその戦い方が注目されてきました。

織田信長が桶狭間の戦いで勝利を収めたのには、戦場とした場所とその戦い方にあります。

織田信長が桶狭間の戦いで勝てた理由には?

織田信長が桶狭間の戦いで出陣できた兵士の数は約3000人程度といわれ、尾張に侵攻してきた今川軍の軍勢は約3万とされ、織田軍の約10倍でした。

兵士の数で圧倒された織田軍は、今川に送り込んでいた徳川家康から大高城へ大量の兵士を送り込んでいる情報から、今川軍が大高城に向かうことを想定します。

駿河から大高城へ向かう経路で、道が狭く湿地である桶狭間を戦いの場所に設定し、一点集中させた奇襲作戦を仕掛けます。

桶狭間の戦いで、織田信長が一点集中した奇襲作戦のみで簡単に勝てたわけでなく、桶狭間に近づいた今川軍に地元の農民を使い、お酒やお餅などで疲弊した兵をおもてなしします。

おもてなしの農民は、もちろん織田信長のスパイで、織田軍の少数での勝利には綿密な情報収拾と今川軍の動向を注視した対応があり、簡単に勝利を挙げたわけではありません。

織田信長の評価を高めた桶狭間の戦い

尾張全土を平定して間もない織田信長は、駿府を治める有力大名である今川義元が尾張に侵攻したことに対応して、桶狭間の戦いが起きます。

織田信長は、今川義元の10分の一の軍勢で戦場となる場所を狭い道幅と湿地である桶狭間に徳川家康を利用することで誘導し、一点に集中した奇襲作戦で、結果的に簡単に今川義元の首を取ります。

この戦いによって、織田信長の戦国武将としての名前は全国に広がります。