武士の職制の一つである馬廻は時代や大名家によってその呼び名に多少の違いがあり、織田信長についた馬廻は馬廻衆と呼ばれ、小姓や有力豪族の次男や三男で編成されていました。
馬廻衆は、対象の馬の周囲に付き添い護衛する役目から伝令や決戦の際の兵力として活躍を期待された職制の一つで、戦時下にない平時には、大名の護衛となり側近として事務的な職務も果たしています。
織田信長の馬廻衆の中から特に優秀な馬廻を選り抜いた親衛隊なるものを組織していて、黒母衣衆と赤母衣衆の二つに分けられて存在していました。
織田信長の周囲を警護していた馬廻衆や、その中でもエリート集団である親衛隊について紹介します。
織田信長の周囲を固めた馬廻衆の中のエリート
織田信長の周囲を警護した馬廻衆の中でも優秀な騎馬武者を黒母衣衆に10名、赤母衣衆に9人選抜して親衛隊を組織しています。
それぞれの母衣衆は、黒と赤に染めわけた母衣をまとい、騎乗した背中に風船をつけたように見える姿が颯爽と見えたようです。
母衣をまとった騎馬武者には、源実朝が初めて着用された記録があり、母衣武者を晒し首にすると成仏できないと戒められ、母衣武者の首は母衣で包むことが暗黙の了解になっていたようです。
戦国時代での母衣武者は、エリート騎馬武者としての存在を敵味方の双方に示しており、織田信長も騎馬武者たちの競争意識を煽るかのように、黒母衣と赤母衣を組織したと考えられます。
織田信長の黒母衣衆と赤母衣衆の違いは?
織田信長が周囲を固めるために組織していた黒母衣衆と赤母衣衆ですが、いずれも騎馬武者としての武功や器量に優れた者を、馬廻衆から選抜しています。
赤と黒の二組に分けられていたのには、それぞれの隊で競わせる意図があったと想像でき、黒母衣衆が馬廻衆から選り抜かれ、赤母衣衆には小姓から選り抜かれていることでも推測できます。
黒母衣衆と赤母衣衆の筆頭には、それぞれ川尻与兵衛秀降、前田又左衛門利家が務め、それぞれの母衣衆は10名程度の構成となっています。
織田信長の周囲を警護していた母衣衆の中から、その後の有力大名となった人物も多く存在し、武功と器量に優れた人物が選ばれていたことが示されています。
織田信長直属のエリート集団である母衣衆
武士の大将周辺の警護や伝令、平時の官僚職務もこなす馬廻衆が、それぞれの大名が周囲につけていましたが、その組織や構成、呼称は若干違いがあるようです。
織田信長にも馬廻衆が存在し、その中でも優秀な騎馬武者としての武功や器量を持つ者を選抜した黒母衣衆と赤母衣衆で構成しています。
それぞれの母衣衆は、10名程度で構成され、馬廻衆の中から選抜された黒母衣衆と小姓から選抜された赤母衣衆で、ライバル心をかき立てたのではないかと考えられます。
馬廻衆から選りすぐった信長の親衛隊にも、競争心理をくすぐる組織編成にするあたりが、合理主義者だった信長の姿勢が感じられます。