織田信長がおこなった外交政策とは?

織田信長といえば、桶狭間の戦いでみられる少数の軍勢で果敢に大軍に立ち向かい勝利する魔王的な姿を想像します。

歴史小説やドラマ、映画で描かれる織田信長では、あいまいな風習や慣習を嫌い、宗教を信じないなどの革新的な姿を想像させるものが多いため、革命家としてカリスマ性を感じさせる姿も連想させます。

しかしながら、史実からは、敵対する大名や室町幕府の将軍、朝廷との関係、宗教勢力などとの外交政策には、イメージとは異なる姿が垣間見えます。

織田信長が、戦国時代において天下統一を目指して行った外交政策などについて紹介します。

織田信長の諸大名に対する外交政策

織田信長の諸大名に対する外交政策は、上杉謙信に宛てた手紙などでみられる極端にへりくだった表現をしたり、武田信玄に対する屏風などの贈り物などにも、格上の相手に対する無用な挑発を避け、媚びるかのような謙虚な姿勢を示しています。

その一方で、相手の武将が自分と対等あるいは格下となった際には、互角に付き合う姿勢を示すという合理主義的な外交政策を取っています。

織田信長が史実に残した戦の戦績には、大軍に立ち向かい刃向かった印象を受けるものの、実際には、武力やタイミングを思慮深く分析したうえで判断していたと考えられます。

織田信長の諸大名に対する合理的な外交政策は、室町幕府の足利将軍家に対しても同様のことが言え、足利義昭の上洛に協力した信長に対する批判的な言動に対しても懸命に説得し、天皇を動かして和睦したにも関わらず挙兵されても、追放のみで済ませているのには、一般庶民の評判も考慮したものと考えられます。

織田信長の天皇との関係は?

織田信長は、皇居の修理費用の負担をしたり、公家に対する徳政令を出すなどの経済的な支援を行い、皇室を保護する姿勢をとるといった外交政策をしています。

織田信長が既成の権威を嫌い、納得できない既得権益を排除したイメージとは違い、実際には、皇室に対する外交政策でみられるように、天下統一のために既得の権威を最大限に活用しようしたと考えられ、彼の合理主義と現実主義が現れています。

皇室に対する姿勢と同様に、比叡山延暦寺の焼き討ちといった無慈悲な仕打ちにも、織田信長は単純に敵対したものに報復したに過ぎず、他の大名が行なっていた行動となんら違いがあるものではありません。

織田信長が革新的で革命家のようなイメージとは違い、既存の権威を活用した外交政策をみれば、保守的な姿勢がみられます。

織田信長のイメージとは違う外交政策

織田信長の桶狭間の戦いや比叡山延暦寺の焼き討ちなどの史実から想像される既存の権威や宗教に対する否定的な人物像とは違い、実際には、古くからの権威や宗教に対する敬意を払い、利用できる既得権を最大限保護しながら、勢力を拡大しています。

大軍を少数の軍勢で突破したり、焼き討ちなどの残虐な仕打ちのイメージが取り上げられるものの、諸大名や幕府、天皇、宗教勢力などへの織田信長の外交政策は、味方となる相手を保護し、抵抗する相手に対しては報復するという合理的で保守的な手段と方法をとったといえます。

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