戦国時代の軍事力には動員される兵の数が大きく影響し、動員兵力は戦国大名の石高によって左右されます。
戦国大名の1万石で動員できる兵力は250人程度と推定され、700万石と推定される織田信長は、175000人の兵を動員できる軍事力を持っていたと計算されます。
織田信長は長篠の戦いで鉄砲隊を導入するなど、それまでの戦国武将とは違う戦い方をはじめており、従来の戦国大名の軍事力の判断基準には当てはまらないかもしれません。
織田信長が持っていた軍事力や組織した軍勢の軍団長などを紹介します。
織田信長が編成していた各方面軍とは?
織田信長を大将に、老臣、側近の家臣を織田軍の司令部とし、近畿、北陸、関東、中国、四国の五つの各方面に対応するための各方面軍を組織していました。
北陸方面軍と大阪方面軍がまず成立し、それぞれ柴田勝家と佐久間信盛が軍団長を務め、その後、佐久間信盛の追放により大阪方面が消滅し、中国方面軍と機内方面軍が成立し、羽柴秀吉と明智光秀がそれぞれの軍団長となります。
そして、滝川一益の関東管領軍と織田信孝の四国方面軍が成立します。
それぞれの各方面軍の軍事力には、万単位の兵を有する軍団を織田信長が有力家臣に与えており、それぞれの軍団長が指揮をとっていました。
織田信長が軍事力を強化した方法には?
織田信長が軍事力を強化するために他の武将と違っていたのは、戦さでの戦いに専念する家来と石高をあげるため専念する家来を区分したことがあります。
戦国大名の軍事力をあげるには、動員兵力を増やすことが最も重要で、そのためには相当のお金が必要であり、石高を上げる必要があります。
織田信長の合理主義が具現化された形で、兵農分離を行なって軍事力を強化し、家臣団の組織を状況の変化に合わせて変更させています。
初期の家臣団では、吏僚、旗本、部将、連技衆を横並びの組織とし、近江支配体制へと移行させたのち、前述のような軍団長が指揮を執る各方面軍の組織を形成します。
織田信長の軍事力を支えた石高
戦国時代の武将の軍事力は、軍資金となる石高を持ち、必要に応じて素早く使うことができるお金を回すことが優劣となります。
織田信長は、戦国時代の同じ時期を生きた武将たちの中でもずば抜けた石高を持ち、そのため合戦に必要な動員兵力の確保が可能となり、しかも、鉄砲など新しい武器も導入したこともあり、軍事力を強化できたといえます。
しかも、信長は他の武将とは違い、周囲と自軍の状況に合わせた組織を形成し、尾張統一後の天下統一に向けて、各方面軍に有力大名を軍団長として指揮権を与えて組織します。
信長の軍事力には、資金面と組織の両面を合理的に考えた構成を目指した結果といえます。