歴史に名を残した人の人柄や性格などは、残された史料をもとに書かれた小説や映像化された作品によるイメージが大きく影響しています。
戦国武将を描いたドラマや映画に登場する織田信長からは、短気で残忍な性格を簡単にイメージでき、のちの豊臣秀吉との関わりからも人柄や長所も想像できます。
戦国時代に活躍した織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、三英傑とも呼ばれ、現代でもそのリーダー像の違いが話題となることも多くあります。
織田信長の人柄を示す逸話や、長所や短所といった性格を知る手がかりなどを紹介します。
尾張の大うつけと呼ばれた織田信長の行動には?
幼少期から青年期にかけての織田信長には「尾張の大うつけ」と呼ばれるほど、当時の常識的な格好もせず、湯帷子を普段着がわりに町中をお供の肩にもたれ掛かりながら、柿などをかじりながら歩いたとされています。
しかも、一般庶民とも分け隔てなく接したといわれ、祭りの時には一緒に踊り、障害者には木綿を分け与えたて世話をしたといった身分を気にしない寛容な性格と人柄を示す逸話が残されています。
そのため、のちに農民出身の秀吉や各地を巡っていた明智光秀などを、その能力によって簡単に抜擢し登用したことにも、その人柄と判断の基準が当時の武将たちとは違っています。
織田信長がおこなった能力主義による人物判断には、信長の長所ともいえる寛大な性格と身分にこだわらない人柄があり、前例のない鉄砲を取り入れた戦術や、楽市楽座などの政策、街道の整備などにも新しいことを受け入れる性格が現れています。
織田信長の俳句からわかる短所ともいえる性格
織田信長が残した「鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす」という有名な俳句には、信長の短所ともいえる短気で冷酷な性格を簡単に理解できます。
織田信長が比叡山延暦寺の焼き討ちや一向一揆といった仏教勢力にみせた残虐ともいえる対応には、前述のような一般庶民にみせた長所ともいえる寛大な人柄とは真逆な性格といえます。
信長の家臣が書き記した「信長公記」やルイス・フロイトの「日本史」などからは、重要な判断は家臣の意見を聞くことはなく、自らの判断基準に基づいていたとされます。
一般庶民にみせた織田信長の寛大な人柄や包容力は、戦国時代に初めて天下布武を掲げた武将としての器の大きさを感じさせるもので、敵対する勢力に対する冷酷とも思える仕打ちは、目的達成のためだったと推測できます。
織田信長の史実からわかる人柄や性格
ドラマや映画などに表現される織田信長によって、その人柄や性格は簡単にイメージでき、残された「信長公記」や「日本史」といった史料などからも裏付けられています。
現代でもひとつのリーダー像として注目される織田信長の人柄や性格には、短気で冷酷な一面を持つ反面、家臣に対して能力主義に基づく判断による人材の抜擢や登用を行なっています。
織田信長という歴史に名を残した人物にも、長所と短所が両極に存在し、判断が求められた局面で独自の決断を下していたことがわかります。