織田信長は上杉謙信と武田信玄に対して戦国武将として脅威を感じていたとされることは、手紙にみられる必要以上のへりくだった表現からも推測できます。
織田信長と上杉謙信の軍勢が戦った手取川の戦いでは、織田軍の大将として柴田勝家が上杉謙信とぶつかります。
手取川の戦いにつながるきっかけは、七尾城主の畠山義隆の死去により畠山春王丸が幼くして家督を継いだことで、上杉謙信が能登への侵攻を始め、畠山家の長続連が七尾城に籠城することを決めます。
長続連らが、上杉謙信に対抗するために織田信長に援軍要請をし、それを受けて柴田勝家を大将として先発させ、織田信長も出陣の準備をします。
織田信長の北陸攻略に柴田勝家が?
織田信長が足利義昭との仲たがいや石山本願寺の問題などで孤立していた時期に、長篠の戦いで武田勝頼を破ったことで、各方面への攻略軍を動かします。
北陸の上杉対策として、織田家の家臣の中でも勇将である柴田勝家を担当させ、長続連らの要請を受て七尾城に向かい出陣させますが、到着前に七尾城が陥落してしまいます。
しかも、柴田勝家と同じ役目を果たすべく進軍していた羽柴秀吉が勝手に陣を離れてしまい、柴田勝家だけで上杉軍を阻止しようとしますが、七尾城陥落を知って、手取川を超えた直後に撤退を決めます。
撤退を決めた場所が、手取川を越えた場所であったことが、柴田勝家にとって最悪のタイミングとなり、敗走につながってしまいます。
柴田勝家と上杉謙信との手取川の戦いは?
七尾城の援軍として先行派遣された柴田勝家を大将とした軍勢は、到着前に七尾城が陥落したことを知り、羽柴秀吉が勝手に陣を離れたこともあり、到着前に撤退を決断します。
撤退を決めた場所が、手取川を越えた場所であったため、鉄砲用の火薬は濡れた状態で使い物にならず、雨で増水中の川が柴田勝家の軍勢の岐路を阻みます。
そのため、背後をついた上杉謙信の軍勢が終始優勢に戦いを進め、柴田勝家は無事だったものの、多くの戦死者と溺死者がでて、織田信長の到着前に、織田軍の柴田勝家の敗走という結果になり、信長の北陸侵攻が中止となってしまいます。
手取川の降雨による増水と戦いの時の雨が、柴田勝家の火縄銃の使用ができなかったこと、騎馬隊の混乱、更に羽柴秀吉の勝手な離陣が敗因ですが、上杉謙信の後日談として「織田信長はそれほど強くなかった」という言葉が残されています。
上杉謙信の最後の戦いとなった手取川
上杉謙信の最後の戦いとなった手取川での織田軍との戦いで、柴田勝家は完膚なきまでに叩きのめされ、敗走せざるを得ない結果となります。
長篠の戦いで自信をつけていた織田軍の軍勢でしたが、七尾城の援軍として先行派遣された柴田勝家らが、手取川の増水と雨の影響で火縄銃の使用ができず、騎馬隊が混乱したことが大きな敗因ですが、羽柴秀吉が勝手に陣を離れたことも大きな敗因の一つです。
羽柴秀吉の離脱に対して織田信長の叱責はあったようですが、これまでの功績を重んじたのか目立った処分などもなく、この秀吉の不可解な行動が、本能寺の変の黒幕説などにも結びついているようですが、真相はわかりません。