織田信長は高野山を焼き討ちするつもりだったのか?

織田信長には、戦国時代にあった曖昧な風習や慣習を嫌い、人材登用にも実力主義を取り入れ、当時としては珍しい合理主義的な判断をする武将というイメージがあります。

また、戦国時代の室町幕府と天皇の二代権威に対しては、無用な衝突を避けながら、最大限に活用しようとしたことも、残された史実からも明らかです。

その一方で、戦国武将でもない寺社勢力が政治や軍事面などに大きな影響力を持っていたことを嫌い、特に比叡山延暦寺に対しては、浅井朝倉との戦いの中での対応から、焼き討ちという結末も迎えています。

織田信長が対立姿勢をみせた延暦寺と同じ寺社である高野山への対応が、焼き討ちをするつもりだったのかを紹介します。

織田信長が焼き討ちにした比叡山延暦寺

織田信長が、越前朝倉への侵攻によって衝突した姉川の戦いにおいて、浅井朝倉両軍の敗走兵をかくまったのが比叡山延暦寺で、信長の兵の引き渡し要求に対して、延暦寺は兵をかばい続けます。

比叡山延暦寺は、広大な寺領や経済力をもち、多くの僧兵を抱えて有力大名並みの巨大勢力となっていることで、高利貸しや女遊びをする堕落した僧侶も多かったこともあり、織田信長の兵引き渡し要求に応じない態度に激怒したと考えられます。

それにより、3万の兵による包囲陣を深夜に組み、早朝になった段階で総攻撃を仕掛け、僧侶や上人の首をはね、数千の屍があふれる焼き討ちを行っています。

織田信長の残虐な比叡山延暦寺の焼き討ちですが、宗教に対する否定ではなく、宗教を隠れ蓑にした権力の悪利用と堕落した世俗まみれとなった僧侶に対する嫌悪、信長に対する敵対行為に対する行為だったと解釈できます。

織田信長が侵攻していた高野山では?

織田信長が高野山を攻めたのも、前述の比叡山延暦寺と同様、武将同士の戦さの落武者を高野山が庇い、信長の要求に対して応じなかったことが原因です。

高野山を攻めるきっかけとなったのは、信長の家臣であった荒木村重が、交戦中であった石山本願寺に内通し、居城の有岡城に篭ってしまい、信長の説得を拒否したうえ、逃走した荒木と側近の数名を高野山が匿います。

比叡山延暦寺の焼き討ちが起きた状況と酷似していますが、織田信長の使者を高野山が殺害したために、出兵して捉えた高野聖や僧侶たちを処刑しています。

しかしながら、高野山は人質をあっさりと引き渡し、織田信長との対話を継続したために、延暦寺のような焼き討ちという結末にはならなかったようです。

とはいえ、本能寺の変で織田信長が自害に追い込まれていなければ、高野山の運命も変わったかもしれません。

織田信長が対立した寺社勢力とは?

織田信長による延暦寺の焼き討ちは、その残虐な結果から魔王的な戦国武将のイメージが信長に残っていますが、実のところは、敵となった相手に対する戦国武将の攻撃だったといえます。

天下統一に向けて、織田信長は既得権益を排除しようとしていたと考えられ、政治や軍事力を備えていた寺社勢力を毛嫌いしていたこともあり、自身への敵対行為に対する処罰を与えた結果が延暦寺の焼き討ちであり、高野山への攻撃もキッカケは延暦寺と酷似していますが、その経過が異なります。

高野山への攻撃の本当の結末は、織田信長の本能寺の変での自害によって、焼き討ちとはなっておらず、信長の墓が高野山奥の院にあることも因縁を感じさせます。