織田信長の一向一揆への対応にみられる戦略

戦国時代に一向宗の浄土真宗本願寺教団の信徒たちが起こした権力に対する抵抗運動の一揆の総称が、一向一揆と呼ばれ、織田信長とも争いを起こしています。

織田信長と一向宗との関わりは、足利義昭を奉じて京に入り将軍に就任した後に、織田信長が石山本願寺に対して5000貫の軍資金と本願寺の明け渡しを求めたことから、石山合戦が始まります。

その後、織田信長と石山本願寺との石山合戦は、約10年にわたって続き、それに派生しておきた伊勢長島一向一揆、越前一向一揆においても織田信長が苛烈な処置を取っています。

一向一揆が戦った理由や、織田信長が一向一揆に対して行なった戦略などを紹介します。

織田信長と一向一揆の関わりは?

一向一揆とは、一向宗(浄土真宗)門徒である僧侶や農民を中心に、守護大名や荘園領主といった権力者に対して起こした戦いで、室町時代中期以降約1世紀にわたって頻発しています。

織田信長と一向宗との関わりは、足利義昭を奉じて京に上洛して将軍職についた義昭の名を利用した織田信長が、一向宗の石山本願寺に対して、軍資金と本願寺の明け渡しを要求したことに始まります。

石山本願寺は、織田信長の軍資金要求に対しては素直に応じたものの、明け渡し要求に対する回答はせずにいたものの、織田信長の野田砦と福島砦の攻撃で、顕如は自分たちへの襲撃を恐れるあまり、織田信長に先に仕掛けますが、すぐさま和議に応じます。

しばらくの間は、織田信長と一向宗の石山本願寺との関係は表面上穏やかに維持されますが、将軍足利義昭の武田を中心とした織田信長包囲網が作られる中、一向宗本願寺派が加わり、織田信長と戦いを始めます。

織田信長は、包囲された軍勢を個別に突破し、最終的には石山本願寺を兵糧攻めにして和議を結び本願寺を明け渡させます。

織田信長を苦しめた一向一揆は?

織田信長を苦しめた一向一揆は、本願寺が挙兵する前に起きていた伊勢長島一向一揆、越前一向一揆があります。

これらの一向一揆は、織田信長と石山本願寺との争いによって派生した一揆で、伊勢長島一向一揆は、地理的な理由と長島の一揆では住民の多くが武装しており無抵抗ではなく、織田家の損害も大きかったこともあり、皆殺しという苛烈な処置が取られました。

しかしながら、石山本願寺の降伏には、皆殺しにはせず本願寺派を赦免し、和睦しています。

一向一揆は、宗教的な対立と考えられがちですが、織田信長が一向宗本願寺と対立した理由には、その財力と本願寺の設置された地理的条件の良さのために獲得する必要性を感じたためと考えられます。

織田信長に制圧された一向一揆?

室町時代中期から頻発した一向宗門徒による権力者に対する一揆は、一向一揆と呼ばれ、顕如の布教活動もあり、近畿や東海、北陸で勢力を強め、加賀の国には門徒領国を形成します。

織田信長が、室町幕府最後の将軍足利義昭の名前を利用して一向宗の石山本願寺とのやり取りを通じて、本願寺の顕如による攻撃から争いが激化し、最後は石山本願寺の明け渡しの結果を迎えます。

一向一揆は、時の権力者との宗教対立と考えられますが、織田信長との対立は、宗教観というよりも実利的な利用によるものと推測されます。

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