織田信長が考えていた朝鮮出兵とは?

日本と朝鮮半島には、古代の神功皇后による新羅出兵や、新羅、高句麗、百済の日本への朝貢などを伝える内容が日本書紀などにも記載があり、鎌倉幕府の時代には元寇といわれる元の軍勢による九州北部への侵攻も受けています。

天下統一を目指した織田信長が、日本の統一を成し遂げたら、明を征服して国々を部下たちに分け与えるといった発想をもっていたとする記述が、宣教師フロイスの報告書の中にも登場しています。

実際に朝鮮出兵を行なったのは、織田信長の後を引き継いで天下人となった豊臣秀吉ですが、信長の発想を現実のものにしたともいわれます。

織田信長が思い描いていた朝鮮出兵を実行した豊臣秀吉の動きなどを紹介します。

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織田信長の朝鮮出兵の構想は?

戦国武将のなかで、日本の天下統一を目指した織田信長は、本能寺の変で最期を迎えますが、日本の統一後には、朝鮮半島の征服も視野に入れていたと考えられます。

宣教師フロイスが記した「日本史」には、「信長は日本を統一したら次に明を征服して国々を部下たちに分け与えるといった発想をもっていた」と記されており、朝鮮出兵の発想を抱いていたことがわかります。

これと符合するかのように、朝鮮出兵で漢城を陥落の知らせを受けた豊臣秀吉の秀次に宛てた手紙には、「天皇は明の北京へ移し、その周りの10か国与えよう。云々。」といった構想が綴られています。

一説には、秀吉は明の寧波府に城を構えて、天竺へも進出を考えていたといわれており、秀吉の構想の原点には、織田信長の発想が元になっていると推測できます。

豊臣秀吉が行なった朝鮮出兵は?

本能寺の変で横死した織田信長の後を受け、豊臣秀吉が天下人となり、文禄・慶長の役と呼ばれる二度の朝鮮出兵を実行に移します。

豊臣秀吉の朝鮮出兵は、あくまで明の征服の足場を固めるためのもので、明国までの道を貸す要求を拒まれたことで戦いとなっています。

最初の戦いとなった文禄の役では、日本軍がわずかひと月足らずで漢城を陥落させ、その二ヶ月後には小西行長が平壌まで、加藤清正は北朝鮮の最北部まで侵入して朝鮮全域を制圧しています。

しかし、朝鮮側の義勇軍によるゲリラ戦での抵抗や、日本側の物資補給の困難さから、日本側の勢力維持が難しくなり、和議を結んで日本軍は撤退しています。

その後の交渉も行き違いが生じて決裂しており、2回目の戦いとなる慶長の役が勃発しますが、戦いの最中に秀吉がなくなり、朝鮮出兵は中止されます。

領地と貿易の発展を狙った信長と秀吉?

天下統一を目指した織田信長は、フロイスの日本史にも残されるように、日本のみならず朝鮮半島への侵攻も構想しており、領地拡大はもちろん、日明貿易を復活させようとしていたと想像されます。

織田信長を強烈に尊敬していた豊臣秀吉にも、その発想が受け継がれたとしても不思議ではなく、信長の意志を受け継ぐかのように、日本の天下人となり、朝鮮出兵を実行に移します。

豊臣秀吉の朝鮮出兵は、明への侵攻のための手段にすぎなかったものの、その侵攻は朝鮮側の抵抗と物資補給の困難さから二度にわたる文禄・慶長の役が失敗に終わります。

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