戦国時代の武将の多くは、子孫を残すために正室のほかにも多くの側室と呼ばれる女性を傍におくことが普通でした。
戦国武将同士の同盟関係を構築するための政略結婚や重臣の娘を人質として、政治のために迎えたり送ったりといった時代ですから、当然のことかもしれません。
戦国時代の妻には、正妻である正室、子孫を残すための役割の側室、そして正室が早世した場合などに迎えた後妻の継室の三種類があります。
織田信長にも、正室の帰蝶と吉乃をはじめとした8名の側室がいて、それぞれの仲にはさまざまな説があります。
織田信長と正室の帰蝶の仲は?
大河ドラマや映画などでの織田信長と正室の帰蝶の仲は、良好なものに描かれたものが多いものの、側室の生駒吉乃の関係ほど資料が残されていません。
帰蝶は、美濃国の斎藤道三の娘であり、織田信長の正室となったのも政略結婚であり、斎藤道三の死後に離縁したという説もある一方で、織田信長と側室の吉乃との間に誕生した嫡男の信忠を養子にしており、信長が帰蝶を慮っていたことも感じられる仲も想像できます。
しかしながら、帰蝶が病弱で離縁されたとか、早世したとか、政略結婚であったこともあり、さまざまな説が存在しています。
織田信長の正室である帰蝶の記録には、山科言継の日記「言継卿記」があります。
帰蝶とは、どんな人だったのか?
戦国時代の武将の妻の記録は少ないことが多く、帰蝶の人柄を知る資料には、前述の「言継卿記」が唯一のものかもしれません。
言継卿記によれば、芯の強いはっきりした女性であったことが記されており、信長の周囲には女性が多くいたものの、秀吉のような女性関係でのトラブルがなかったのは、帰蝶が正室として取り仕切っていたことが想像されます。
織田信長と側室の吉乃との間に生まれた信忠を養子とした際にも、吉乃が不服を申し立てることもなく、帰蝶も了承していたことをみれば、双方が立場をわきまえた仲が成立していたと推測できます。
織田信長と正室の帰蝶の仲を知る明確な記録はないものの、二人の仲は信頼関係が感じられる史実が残されているため、小説やドラマに描かれる仲の良い夫婦関係になっていると考えられます。
織田信長と帰蝶の仲は、良好だった?
美濃国の斎藤道三の娘である帰蝶を政略結婚で迎えた織田信長でしたが、二人の仲は良好なものであったと推測されます。
帰蝶の客観的な史料が残されているわけではなく、帰蝶と側室吉乃の関係や、織田信長と帰蝶が嫡男信忠を養子として迎えたことなどからも、二人の仲には信頼関係があったと考えられます。