織田信長が天下統一を目指した戦国時代には、室町幕府と天皇という二大権威が存在しており、合理主義だった信長は、これらの権威を最大限に活用したと考えられます。
天皇は、古事記や日本書紀では神武天皇が初代とされ、日本の歴代の君主として戦国時代には、征夷大将軍を任命し、有力大名たちがそれぞれの領地内の人民を統治しています。
征夷大将軍となるためには、天皇の存在は必須で、織田信長が天下統一で絶対的な権力を握ろうとしたことからも、天皇制廃止を望んでいたとは考えにくいと思われます。
織田信長の室町幕府と天皇や皇室との関わりから、天皇制廃止などを紹介します。
織田信長が京に入ったときの正親天皇は?
織田信長と天皇のかかわりは、三好氏に狙われていた足利義昭を室町幕府の将軍に就任させるべく入京させたことがあげられます。
京入りした織田信長は、即座に京の警護を命じ皇室の保護をはかり、当時の正親町天皇の味方であることを示しており、天皇制廃止を望んではいません。
織田信長が上洛し、天皇を護ったのには、浅井と朝倉との戦いが勅命であるという世論をつくることができ、天皇の権威を利用した大義名分を得たと考えられます。
つまり、天皇をはじめとした皇室を援助することで、織田信長にとってもメリットがあり、正親町天皇にとっても、信長の存在で京の治安が良くなり国内の安定も期待できたため、双方の利害が一致した関係にあったと思われます。
織田信長が天皇制廃止を望んでいたとされるのは?
織田信長が天皇制廃止を望んでいたとされるのは、信長の征夷大将軍の任命を正親町天皇が拒絶したため、正親町天皇が譲位を拒否したため、権威の象徴でもあった天下の名香「蘭奢待」の切り取りを正親町天皇に認めさせたため、京での馬揃えで正親町天皇を威圧し続けたため、などが根拠としてあげられます。
しかしながら、天皇制廃止を望んだとされる根拠のいずれも、疑わしいものが多く、征夷大将軍の任命を天皇が拒絶したというのは、信長は任命を望んでいなかったため真実とは異なります。
そのほかの天皇の譲位や「蘭奢待」の切り取り、馬揃えでの威圧などについても、当事者たちの残した史実からすれば、内容に齟齬があります。
戦国時代の天皇にはお金がなく、下克上が頻発する状況下にあり、権威のみが保持された状態だったため、織田信長が天皇制廃止を行うことに合理性がなく、利用価値を認めていたと思われます。
織田信長の合理主義的な思考からは天皇制廃止はなかった?
戦国武将のなかでも、それまでの曖昧な慣習やしきたりを嫌い合理主義者であった織田信長にとって、天皇の存在は既存の権威として利用価値のあるもので、天皇制廃止をすすめるつもりはなかったと考えられます。
織田信長と正親町天皇のやり取りから、信長が天皇を圧倒的に抑え込んでいた状況が想像でき、そのため、天皇制廃止といった憶測ができますが、史実を個々にみてみると、両者の利害が一致したうえで利用しあっていた関係がみられます。
足利義昭を奉じて上洛した織田信長が、最初に京の警護体制を命じたことで、世論と天皇をはじめとした皇室を味方につけ、権威の最大活用が可能となったと考えられます。