織田信長と伊達政宗にはどんな関係がある?

戦国時代の日本各地にいた戦国武将のなかでも、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が三英傑として有名ですが、奥州の伊達政宗もこの三者と少なからず関係をもっています。

織田信長が、明智光秀の謀反により本能寺で最期を迎えたのが1584年ですから、1567年に生まれた伊達政宗が17歳の時ですから、面識があったとは思えません。

しかしながら、一説には、伊達政宗が織田信長に憧れを抱いていたといわれ、戦国武将としての戦歴や史実からも、信長を意識していたことを感じさせるものがあります。

尾張国を統一し天下統一を目指した織田信長と、奥州を統一して天下統一を目指した伊達政宗の関係を紹介します。

伊達政宗にとっての織田信長は?

織田信長の17歳年下である伊達政宗は、奥州の一大勢力を保持した伊達家に誕生しますが、周囲の大名からの領地奪取などにより、その勢力に陰りをみせています。

伊達政宗と織田信長が直接の関係を持っていたとは考えにくく、伊達政宗の父、伊達輝宗と信長が書簡によるやり取りが残されています。

伊達輝宗と織田信長の書簡は、伊達家の「伊達家文書」に残され、信長が上杉謙信を牽制する意図があり、伊達輝宗との関係を構築したと考えられます。

織田信長は、伊達輝宗への手紙に加えて、絹織物や虎皮なども贈っており、輝宗からの返礼品も信長のもとに届いています。

伊達政宗が、父輝宗と信長のやり取りを目にしていれば、信長の尾張国の状況やその後の戦いの内容から、戦国武将として憧れを抱いたとしても不思議はありません。

伊達政宗に感じられる織田信長との共通点は?

前述のように、奥州の覇者と呼ばれた伊達政宗と織田信長の間には、直接の関係はなかったと考えられるものの、政宗の父、輝宗と信長のやり取りを身近に感じていたことは確かで、その関係性の中で、信長の人物像を想像し、武将としてのあり方を真似したことが推測できます。

伊達政宗が初陣を迎える頃の状況は、織田信長が尾張国の統一前の織田家内の紛争状況と似ています。

織田信長が、歯向かう敵に対して徹底的に殲滅させた印象が強い比叡山延暦寺の焼き討ちと同じように、伊達政宗が奥州統一の第一歩となった小手森城の合戦では、兵士だけではなく老若男女を問わず敵側の人間を殲滅させる戦いをみせています。

伊達政宗の戦い方は、織田信長の敵に合わせた戦い方と同じとは多少違いますが、両者の戦国武将として残した戦歴や史実からも、時空を超えた関係性が感じられます。

織田信長と伊達政宗との間接的な関係

織田信長と伊達政宗が直接やり取りしたり、面会したとは考えにくく、両者の関係は、政宗の父、輝宗や信長の家臣だった豊臣秀吉といった人々につながります。

伊達政宗が初陣を迎える時期に、本能寺の変で亡くなった織田信長の存在は、伊達輝宗を介してのもので、戦国武将として憧れをもった存在としていたといわれます。

伊達家と織田信長の関係は、「伊達家文書」から推測でき、伊達政宗と豊臣秀吉の攻防にも関係が推測できます。