織田信長はなぜ弟暗殺を企てたのか?

織田信秀の正室土田氏は、嫡出子として嫡男に信長、次男に信勝を生んでおり、織田信長は僅か2歳で那古野城主となっており、信秀の死後家督を受け継いでいます。

織田信長には、幼少期から「尾張の大うつけ」と呼ばれるほど、奇行や気性の荒い行動で周囲に知られており、一方の弟の信勝のお行儀の良さから、信秀亡き後の家督を信長が受け継ぐことに反対する家臣も多く、一説には生母の土田御前でさえ信勝を押していたともいわれています。

織田信長が父信秀の葬儀の際、湯帷子姿で馬で登場し、位牌に抹香を投げつけたという逸話からも、葬儀に参列した武将達に「尾張の大うつけ」を印象付け、信勝の家督相続が妥当だとするのも無理からぬことかもしれません。

しかしながら、織田信長の父信秀と平手政秀のふたりは、徹頭徹尾、信長が家督を相続することに味方したのには、信長と弟信勝との器の違いだったかもしれず、その信長が弟暗殺に至った経緯などを紹介します。

織田信勝に家督継承が期待された理由には?

織田信長と信勝の弟、秀孝が15歳の頃に龍泉寺の下の松川渡しで友も付けずに単騎で馬に乗って通行していたところへ、叔父にあたる織田信次らが川狩りに差し掛かり、領主の前で下馬しなかった秀孝を威嚇するため家臣の洲賀才蔵が矢を放ち、謝って殺害してしまいます。

これに激怒した信勝は、すぐに軍勢を織田信次に向かわせ、居城の守山城の城下を焼き払う報復を行い、これにより親族のつながりを重んじる信勝の家督継承を期待する家臣が現れます。

その一方で、信長は、弟の秀孝が単騎で行動していたことにも非があるとして、織田信次の罪を許し、守山城主に戻ったとされています。

この対応からも、信勝を推す柴田勝家や家臣達が家督継承を期待することになるものの、父信秀や平手政秀のふたりは、喧嘩両成敗といった対応をみせた織田信長の武将としての器の大きさを見抜いていたのかもしれません。

織田信長の弟信勝が暗殺された理由には?

織田信長の父、信秀の死により信長は、家督継承に反感を抱く信勝と何度かの小競り合いを繰り返します。

織田信長の支援者であった斎藤道三の死後、信勝は柴田勝家らを味方につけて信長に対して小競り合いではなく、挙兵しますが、信長の即座の鎮圧軍により稲生で合戦となり、織田信長の一喝により、信勝の軍勢は敗走したといわれています。

大敗した信勝を推していた柴田勝家は、切腹覚悟で頭を丸めて信長の前に出たものの、信長が特段の処罰を与えることもなく対応したことに信勝との器の違いに気づきます。

その後の度重なる信勝の信長への謀反の動きから、信長が病気になったと偽りの情報を流し、生母の土田御前とともに見舞いを名目に清洲城を訪れた所を、北櫓天主の次の間で信勝は暗殺されています。

弟暗殺を織田信長が、河尻秀隆あるいは池田恒興に命じて実行させたといわれており、この計画の実行には、信長の家臣すべてが、信長が病気であると演じていたことからも、結束の固さが推測されます。

織田信長の弟暗殺にいたるまでには、度重なる謀反が?

織田信秀の死後、家督を継承した織田信長が、弟暗殺を家臣である河尻秀隆、池田恒興に命じて実行させたといわれるのには、度重なる信勝の信長に対する謀反の挙兵があります。

家督継承争いにおいて、兄弟喧嘩程度の小競り合いであれば、それほど問題ではなかったのかもしれませんが、挙兵して稲生の戦いといわれる戦さで大敗した信勝が、信長の大した処分がなかったことで調子に乗って、謀反を繰り返したために、兄である信長も弟暗殺という残虐な対応を取らざるを得なかったと考えられます。

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