織田信長の子孫と天皇家の関係には

織田信長は、美濃の斎藤道三の娘である濃姫を正室に迎え、もっとも寵愛した生駒吉乃を筆頭に9名の側室を抱え、養子を加えると28人の子供がいました。

織田信長と濃姫との間には子供はなく、生駒吉乃との間に生まれた信忠、信雄、徳姫を嫡子として迎え入れています。

嫡男の信忠は、本能寺の変の時に二条城で亡くなっており、父親である信長の死後、織田信雄が、織田家の子孫を後の世につなげることとなります。

戦国時代の有力大名と公家は、さまざまに婚姻関係を結んでいるため、織田信長の血筋を引く人物が天皇家と関わりをもっていることも、不思議ではありません。

織田信長と天皇家を結んだ子孫は?

織田信長と天皇家を結ぶ子孫には、信長の次男の信雄から高長、長頼、信武、信休、そして織田信休の娘が柳原紀光に嫁ぎ、柳原均光、柳原流光、柳原光愛、柳原愛子と大正天皇へとつながり、昭和天皇、今上天皇と結びついています。

また、織田信長の次男信雄のもう一人の息子である信良、信良の娘と稲葉知通との婚姻により、稲葉恒通、稲葉恒通の娘と観修寺経逸の婚姻で勧修寺ただ子と仁孝天皇へつながり、孝明天皇、明治天皇、昭和天皇、今上天皇へとつながります。

つまり、織田信長の二人の孫が、天皇家との関係をつなぐ最初の子孫となっています。

織田信長の子孫と徳川家康の子孫のつながりも?

前述のように、織田信長の子孫と天皇家とのつながりが、信長の次男である信雄のふたりの息子の子孫たちによって、今上天皇にまで血筋がつながっていますが、徳川家康とも関係があります。

徳川家康の次男である結城秀康の六男「松平直良」が大本藩藩主となり、その三男「松平直明」の娘が、臼杵藩第六代藩主「稲葉恒通」の正室となっています。

「稲葉恒通」は前述の織田信良の娘と稲葉知通との間に生まれた息子であり、戦国時代には信長に仕えていた家康の子孫とが、血筋を重ねることとなっています。

つまり、稲葉恒通と正室との間に生まれた娘が、織田信長と徳川家康の両方の血を引いた子孫となり、観修寺顕道に嫁いで観修寺経逸を産んでいて、前述のように天皇家とつながります。

同様に、三英傑のもう一人である豊臣秀吉の姉の日秀の娘の「完子」が公家の九条家に嫁ぎ、その血筋が天正天皇へとつながっています。

織田信長と天皇をつなぐ子孫たち

戦国時代の二大権威とし存在していた幕府と天皇の関係から、両者を結ぶ婚姻関係は多く、織田信長の血筋を受け継ぐ子孫が天皇家とを結びつけます。

織田信長の次男信雄のふたりの息子、高長と信良の二人の系統から天皇家へと子孫がつながっていきます。

織田信長の家臣であった豊臣秀吉と徳川家康の血筋についても、その子孫たちが天皇家との結びつきを生んでいます。

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