織田信長の最後は?知る手がかりは?

織田信長が最後を迎えたのが明智光秀の謀反による本能寺の変であることは有名ですが、信長の遺骸は見つかっておらず真相は明らかになってはいません。

戦国時代を描いたドラマや映画において、織田信長が本能寺で襲撃され、火に包まれた状況で襖を閉めて最後の時を迎えるシーンが多用されています。

織田信長の最後については、信長の家臣である太田牛一が記した「信長公記」や宣教師フロイスが書いた「日本史」、山科言経の日記である「言経卿記」などさまざまな記述が残されています。

織田信長の最後を迎えた本能寺での状況などを紹介します。

織田信長が最後に残した言葉には?

織田信長が本能寺に襲撃を受けた際、相手がわからず家臣に問いただし、その相手が明智光秀であることを聞き、「是非に及ばず」という言葉を最後に残しています。

織田信長を襲撃した相手が、僧兵や町衆の反乱ではなく、信頼していた明智光秀であることを知り、仕方がないことだという意味の言葉を残しています。

それまで、同盟を結んだ武将を切り捨ててきた織田信長の冷酷さは、家臣である明智光秀に恐怖を与え、その結果として自らの死を招いたことを悟ったとも考えられる言葉です。

織田信長の最後の言葉は、本能寺で信長と戦い脱出した黒人の弥助が「日本王国記」に記述しており、信長に帯同していた女人衆から当時の様子を聞いて太田牛一が書いた「信長公記」にも記述があります。

織田信長の最後の状況は?

織田信長の本能寺での最後の状況について、信長公記やフロイスの日本史によれば、本能寺には宿泊していた若い武士達と茶坊主、女達以外にはおらず、明智方が兵士と共に内部に入った時、手ぬぐいで体を拭いている信長が見つかっており、その背中に矢を放ち、長刀を手にして応戦したとされています。

しかし、その後腕への銃弾を被弾したことで、自ら部屋に入り切腹したというものや、彼は直ちに御殿に火を放ち、生きながら焼死したというものもいたらしく、どのような最後だったかは誰も知らないのが真実のようです。

本能寺は、京都での織田信長の防御機能を備えた建物と立地条件を備えた場所という認識があったため、警護のための兵士配備が薄かったことが致命的になったといえます。

織田信長の最後に側近に居た人による証言などを、さまざまな立場の人たちが書き残しているものの、織田信長が息絶える状態を確認した人はおらず、遺骸が見つからず、羽柴秀吉による信長が生きているという情報操作によって、真実の解明が閉ざされたかもしれません。

織田信長の本能寺での最後

織田信長の本能寺での最後については、信長公記、日本史、言経卿記など、さまざまな立場の人物がそれぞれの状況からの記述が残されています。

明智光秀は織田信長の同盟を結んだ武将の裏切りに対する冷酷さなどでの恐怖があり、その結果が主君に対する暗殺を生み出したともいえ、織田信長の最後の言葉ともなっている「是非に及ばず」という言葉にも表現されています。

織田信長の本当の最後の瞬間を見たものはおらず、その亡骸も発見されていないことで、明確な史実として解明されていません。

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