織田信長の野望と足利、天皇の存在とは?

「泣かぬなら 殺してしまえ ほととぎす」という句からも、織田信長の気性の荒さを推測でき、室町幕府最後の足利将軍や天皇との接し方にもその一面が垣間見えます。

織田信長が天下統一の野望を抱き、「天下布武」という施策を抱えた彼の理想には、彼が歴史に残した史実とは真逆の天下泰平の世を求めていたように思われます。

天下泰平の世にする目的の織田信長にとって、室町幕府の将軍家である足利、天皇といった存在がいかなるものであって、いかなる対処をしようとしていたのかについて紹介します。

織田信長にとっての幕府とは?

室町幕府の実質的な滅亡は、1573年に織田信長が槇島城の戦いで、室町幕府15代将軍である足利義昭を京都から追い出した時点であり、本能寺の変よりも9年も前のことです。

室町幕府14代将軍の足利義輝が暗殺された時点で、足利家の当主となった義昭は、京都に居らず、京都に入るにも松平久秀などが幅を利かせていたため、容易に近寄ることができず、織田信長が足利義昭を奉じて上洛させた経緯があります。

足利義昭は、織田信長に対して感謝の意を表して、権威の委譲や褒美をチラつかせたものの、織田信長は家紋だけを受け取り、幕府という権威にそれほどの魅力を感じていなかったことが推測できます。

将軍の地位だけに満足していた足利義昭は、各地の戦乱を収めることもしなかったため、織田信長は朝廷から戦乱を収めるための武力行使の許しを得ます。

織田信長にとっての天皇と足利の幕府は?

織田信長が掲げる天下布武にとって天皇や足利家による幕府といった当時の二つの権威は、排除する必要を感じながらも、利用価値があれば最大限に活用しようとしたことがわかります。

足利幕府の最後の将軍となる義昭を奉じて上洛させた織田信長が、義昭によって松平久秀などと手が組まれて反信長包囲網が構築され、京で窮地に追い込まれた信長には、幕府よりも上位権威である天皇や朝廷を利用して、停戦協定を結ぶことにも成功します。

室町幕府の将軍である足利義昭との停戦協定後も、織田信長に対する対決姿勢が崩されることがなく、結局は室町幕府を解体に追い込みます。

織田信長が室町幕府を倒した後、正親町天皇へも退位勧告をし、1578年に右大臣を辞任し、公武一和の姿勢を示していたように思われます。

織田信長が目指したのは、足利幕府と天皇の権威の破壊?

織田信長が戦国の世の中で行なった残虐な逸話が語られるため、サイコパス的な面が強調されますが、足利将軍と天皇に対する対応を見る限り、旧態依然とした物を破壊して、天下泰平の世の中を作ろうとしたように思われます。

そのため、将軍である足利でも、天皇や朝廷といった権威も利用できるものは活用するという織田信長の合理主義が、両者への対応にもみられ、結果的に既存権威の破壊につながったといえます。

織田信長にとっては、室町幕府の足利将軍や天皇も天下泰平の世の中を実現するためのツールだったのかもしれません。

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