織田信長と足利義昭の関係は?追放した理由は?

織田信長と足利義昭との関係は、義昭の兄である将軍義輝が三好三人衆によって暗殺されたことにより、両者の利害で結びついた関係です。

足利家では、家督争いを避けるために家督相続した以外の子供を出家させていたため、義昭も京を離れて仏門に入っていたものの、兄の暗殺を受けて還俗したものの、松永久永などが京にいたため、簡単に上洛することができず、朝倉などに救援を要請しますが断られ、最終的に織田信長にたどり着きます。

織田信長には天下統一の野望があるため、幕府と朝廷の二つの既存の権威をいかに利用するかという判断もあって、足利義昭を擁して京に入ったと考えられ、それぞれの思惑が交錯した関係となっています。

そのため、足利義昭が将軍に就任後、織田信長に対して感謝の意を示すものの、次第に信長の意向を無視できない関係にジレンマを抱くようになり、両者の対立から義昭の追放へとつながります。

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織田信長の立ち位置と足利義昭との微妙な関係

織田信長が足利義昭を擁して京に入ることで、義昭の15代将軍就任が可能となり、室町幕府再興という建前の元に諸大名も追随するしか選択肢はなかったといえます。

足利義昭が将軍となったとはいえ、自前の強力な武力を持ち合わせていなかったため、信長の軍事力の後ろ盾によって幕府と諸大名を取り仕切るしかありませんでした。

そのため、武家政権のトップである足利義昭が、織田信長の意向を伺いながら政を行うことに、信長も義昭の自負心を傷つけないような配慮をみせます。

しかしながら、時間の経過とともに将軍として動きたい義昭と、実質的な力を有する織田信長に対立関係が生じ、最後は信長に義昭が京を追放されてしまいます。

織田信長と足利義昭の関係の亀裂のキッカケは?

織田信長と足利義昭との関係に亀裂が生じるキッカケとなったのが、「御内書」とそれに対する「殿中御掟」だと考えられ、これらの書状によって、のちの姉川の戦いや甲斐の武田信玄を中心とした反信長包囲網につながり、結果的には義昭の追放へとつながります。

将軍に就任した足利義昭でしたが、各地の戦乱を収めるわけでもなく、国を安泰に導くわけでもない状況に進言する意味で、織田信長は「殿中御掟」を発したことで、義昭が逆ギレしたことで関係が壊れ、信長を討てという命令を諸大名に出し、甲斐の武田が中心となって織田包囲網が構築されますが、武田信玄の病死により形勢は逆転します。

織田信長が包囲網を確実に打破し、朝廷にもお許しを請い、京に攻め込み、槇島城に篭った足利義昭を京追放にすることで、室町幕府を実質的に滅亡させます。

足利義昭の運命は、織田信長によっては左右された?

仏門に出家していた足利義昭は、兄の義輝が暗殺されたことで、織田信長と浅井長政の軍に守られる形で京に入り将軍に就任します。

将軍となった足利義輝には、征夷大将軍としての軍事力と政の実力はなく、織田信長の軍事力に支えられる状況にジレンマを抱えた結果、両者に対立関係が生まれ、結果的に織田信長によって京から追放されてしまいます。

それまでの織田信長の行動からすれば、首を取ってもおかしくはないものの、足利義昭に対しては追放処分で留めていることが、天下取りを試みる信長の姿を現しているのかもしれません。

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