織田信長と石山本願寺の争いはなぜ起きたのか?

織田信長が足利義昭を奉じて京に入り、室町幕府の将軍に就任させるために浅井長政の軍勢と共に働き、その後、将軍家の名目で石山本願寺から軍資金や御所の再建費用の負担を求めます。

石山本願寺と織田信長の争いは、この頃から始まり、約10年に渡り争いが続くことになります。

織田信長が石山本願寺にこだわった理由には、その財力と本願寺があった場所にあると考えられ、争いの経過と結末などを紹介します。

織田信長が石山本願寺に求めた要求には?

足利義昭が将軍に就任したのち、織田信長は将軍家の名前を利用して石山本願寺に対して、5000貫の軍資金と京都御所の再建資金を求め、本願寺の場所を移して石山を明け渡すように要求します。

織田信長にとって、石山本願寺があった石山という場所(現在の大阪市中央区の上町台地)が重要であって、大阪湾の海に突き出した半島である石山は、貿易港である堺への通過点であり、船便による物流拠点としても重要な場所という認識を持っていたためこだわったと考えられます。

石山が貿易、交易の拠点として優れていることは、織田信長に限らず認知されており、のちに豊臣秀吉がその場所に大阪城を築いたことでも証明されています。

石山本願寺の織田信長に対する対応は?

石山本願寺は、親鸞を開祖とする一向宗の本山で、8代蓮如によって開かれ、その財力は有力大名に匹敵するもので、織田信長が要求した5000貫の軍資金の支払いには応じます。

しかしながら、石山本願寺の移転要求には、簡単に応じるわけにもいかず、織田信長の野田砦と福島砦を攻撃したことから、顕如は三好方を攻撃中の織田軍に攻撃を仕掛けたことで両者の争いが長く続くことになります。

織田信長の石山本願寺への本格的な攻撃が始まったのは、安土城の築城が開始された頃からで、本願寺の四方に砦を築き大阪湾からの物資供給も水軍で包囲し、兵糧攻めにします。

石山本願寺と連携する毛利水軍に対抗するために、織田信長が鉄板と大砲を装備した巨大鉄船を開発して対抗し、織田軍が大勝します。

その結果、1580年に石山本願寺と織田信長は和解交渉が成立し、織田信長は石山本願寺の明け渡し要求を受け入れさせ、約10年に渡る争いに決着をつけます。

織田信長がこだわった石山本願寺の場所

織田信長がこだわった石山本願寺の明け渡しには、その立地が大阪湾に突き出た半島であり、海上交通の起点ともなり、船便の物流拠点としての活用が期待される点にありました。

とはいえ、一向宗の本山である石山本願寺も簡単に明け渡すわけにはいかず、先に攻撃を仕掛けた顕如と織田信長の争いは、その立地から難攻不落であり、陸と海上の物流を止めることで兵糧攻めにすることで、織田軍は和議にこぎつけます。

その際、水軍と戦うために、織田信長は日本初の鉄板と大砲を装備した巨大鉄船を開発しています。

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