織田信長が能楽を好んだ訳は?

本能寺の変での織田信長を映像化した作品の多くに、「人生五十年、下天の 云々」と謡い舞う信長の姿が描かれ、能楽との関わりの深さを感じさせます。

現在いわれる能楽は、能と式三番、狂言の三種類を含めた総称として使用され、重要無形文化財に指定され、ユネスコの無形文化資産にも登録されています。

能は、謡の音楽と所作である舞踏から構成され、室町幕府三代目将軍足利義満の時代から武家の式典で披露されるものとして欠かせないものでした。

織田信長が能を好きだったことは、信長公記などにも記述があり、家臣の豊臣秀吉なども能を舞ったことが記されています。

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織田信長の能楽のイメージには?

織田信長が桶狭間へ向かう前に「人間五十年、下天のうちを比べれば夢幻の如くなり」と謡い舞ったと「信長公記」に記されています。

信長が謡い舞ったものは、「敦盛」といわれる演目で、「能」と「幸若舞」のいずれにも存在していますので、厳密にはどちらかの判断はできません。

しかしながら、これから戦場へ向かう武将の姿としては、能の「敦盛」を謡い舞ったと解釈する方が自然であり、映像化もしやすかったと考えられます。

能には、和歌や連歌に通じる詞章の存在から、戦国武将としての総合的な教養が問われ、幼少期から英才教育を受けた信長が能楽に慣れ親しんだため、好きだったと思われます。

織田信長や他の戦国武将の能楽との関わりは?

織田信長が、桶狭間へ向かう前や本能寺の変で最期を迎える際に、謡い舞った「敦盛」の一節が有名なため、信長が能を好んで自ら演じたとされています。

信長の家臣だった秀吉も、信長の影響か、能を好んで二ヶ月ほどで15番程度の能を会得し、自ら演じていたといわれています。

武田信玄や今川義元も能楽に関する教養はあったと考えられ、武田信玄には、観世大夫と大蔵大夫というお抱えの能役者がいたため、自分で演じることはなかったと思われます。

戦国武将の多くは、武芸だけではなく、能楽や茶の湯に親しむことが教養とされ、信長も他の武将と同様だったと考えられます。

織田信長が好んだ能楽のフレーズ

織田信長を映像化した歴史ドラマや映画で、信長が舞うシーンで謡われれる「人間五十年、下天のうちを比べれば夢幻の如くなり」という一節は、幸若舞と能のいずれにも存在するものです。

この一説には、平清盛の甥である平敦盛が源平合戦の一の谷の戦いで若くして討たれますが、この平敦盛を討った源氏の熊谷直実の出家する際の心情とされ、織田信長が好んでいたといわれます。

戦国武将が武芸以外の教養として、能楽に親しんだのには、能には和歌や連歌の詞章に関わる総合的な教養が求められることが推測されます。

そのため、織田信長以外の戦国武将にも、能楽を好んだ武将も多く、自ら演じることはなくとも、能役者をお抱えにした武田信玄などの存在があります。

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