織田信長は、なぜ延暦寺を焼き討ちしたのか?

織田信長が戦国時代の武将として狂暴なイメージを持たれる理由には、比叡山延暦寺の焼き討ちがあるためかもしれません。

室町幕府足利義輝が暗殺され、京を離れていた弟の義昭を奉じて上洛した織田信長は、義昭の将軍就任を受けて、畿内の諸大名に対して、上洛し挨拶するように求めます。

室町時代の新しい将軍就任に対する挨拶に応じない越前の朝倉義景と援軍を向かわせた浅井長政の連合がきっかけとなり、織田信長との姉川の戦いとなってしまいます。

この戦いで敗れた浅井朝倉の兵が比叡山に逃げ込み、比叡山延暦寺がこれらの兵をかばい、織田信成の神経を逆なでる行動にでます。

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織田信長が感じていた延暦寺のイメージは?

織田信長が感じていた延暦寺のイメージは、多くの僧侶たちが肉食をし、女犯を繰り返し、金銭を溜め込みといった世俗よりも強欲で堕落していたと考えられます。

比叡山延暦寺は、王城鎮護の霊場として絶大な信仰を集め、仏罰を恐れる家臣や悪僧は仕方がないが、高僧を助命すべきではという進言に対して、織田信長が黙殺したことにも、延暦寺の認識がうかがえ、焼き討ちという結果につながったと考えられます。

最近の研究では、信長が焼き討ちした延暦寺ですが、山中ではなく、麓の門前町の坂本あたりに焼け跡が集中して見つかっています。

結果的には、比叡山から4日間黒煙が上がり、国宝や経典など多数が焼失しています。

織田信長が焼き討ちした延暦寺は?

姉川の戦いで敗走した浅井と朝倉の兵士たちをかばった比叡山延暦寺は、それまでの蓄財や悪行の数々もあり、織田信長の逆鱗に触れ、周囲を3万ともいわれる兵士によって囲まれ、3000とも4000ともいわれる犠牲者を出す焼き討ちが行われています。

焼き討ちになった比叡山延暦寺の処理は、明智光秀が任され、周囲の近江の寺院にも放火し、寺領や社領を没収しており、その後の戦闘を有利にするための戦略だったのではという見方もされています。

没収された領地は、明智光秀、佐久間信盛、中川重政、柴田勝家、丹羽長秀に分配され、光秀はこの地に坂本城を築城しています。

一方、延暦寺から生き延びた僧侶たちは、甲斐の武田信玄を頼り、延暦寺の復興を試みるものの信玄が病死し、再興の願いを織田信長が阻止します。

織田信長の残虐さを示す延暦寺の焼き討ち?

織田信長の気性の荒さと残虐性を示す延暦寺の焼き討ちですが、最近の調査では、比叡山の山中ではなく門前町を中心として焼け跡が発見され、大量殺戮があったにも関わらず、人骨が発見されていないなど、不可解な点も散見されています。

しかしながら、織田信長が敵兵を庇った僧侶たちの行動と日頃の素行に対して激怒したとも考えられ、宗教に対する反逆というよりも、宗教に携わる人に対する怒りによる残虐行為だったのかもしれません。

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