織田信長の尾張統一までの流れ

織田信長は、尾張守護斯波氏の下四郡守護代を務める清洲城の大和守系織田氏の三奉行の一家に過ぎない織田信秀の嫡男として、天文3年5月に生まれたとされ、その誕生の場所は那古野城あるいは勝幡城といわれています。

信長の父親である織田信秀は、海上運送の重要拠点だった津島湊、熱田などを活用して収益を上げる経済的な視点をもっていた人物だったと推測でき、その勢力は守護代を凌ぐまでに強めます。

僅か2歳で那古野城主となった織田信長は、父親の経済手腕を継承し、尾張統一し天下統一を目指す後年の人生にも活かされているのかもしれません。

織田信長が、信秀の死後の弟との継承争いを勝ち抜き、尾張統一に至る経緯などを紹介します。

織田信長の家督継承には?

織田信長は幼少期から周囲から見れば、奇抜な行動が多く、「大うつけ」と呼ばれていた状況は、ドラマや小説などにもよく登場するため、一般的に知られたイメージとなっています。

13歳で元服し、三郎信長と名乗り、翌年には平手政秀が後見役となり、今川方の吉良大浜城周辺に火をかけるなどの攻撃を仕掛ける初陣を果たします。

美濃の斎藤道三との和睦を結んだことで、道三の娘濃姫との婚儀が決まり、その4年後に父信秀が急死したことを受け、万松寺での葬儀の際に長つかの大刀、脇差を腰に巻いた荒縄に差し、髪を茶筌に坂立て、袴もはかずに仏前に進み、抹香を仏前に投げつけて帰ったといわれます。

葬儀の際の態度からも、周囲からは大うつけの信長という印象に呆れられるものの、信長本人は、信秀の急死で周囲から狙われている尾張の不安を抱き、葬儀をしめやかに行なっていることへの苛立ちの行動だったのかもしれません。

織田信長が家督を受け継いだことで兄弟の争いに?

織田信秀が尾張の斯波氏の衰えを見極め、津島、熱田を支配して経済力をつけ、尾張中西部に勢力を伸ばしており、信秀の死後、家督を受け継ぐことを反対していた織田大和守家の織田信友を信長が殺害します。

その後、家督を受け継いだ織田信長は、弟である信行とも争い、再度の謀反により信行も殺害し、家督を実質的に掌握します。

さらに、織田伊勢守家当主の織田信賢を倒し、斯波吉謙を追放することで、織田信長が尾張統一を果たします。

織田信長が尾張統一するために、弟を制圧し、斯波吉謙を追放するまでに約8年を要し、その後、今川との桶狭間の戦いを翌年に迎えることになります。

織田信長が尾張統一は天下布武の前哨戦?

織田信秀の急死で家督を受け継いだ織田信長には、「大うつけ」という評価があったため、実の弟信行を推す声もあり、弟との家督争いが起きています。

織田信長は、家督相続を反対していた織田信友を殺害し、弟信行との争いに決着をつけ、斯波吉謙を追放して尾張統一しますが、その間約8年を要しています。

翌年には、織田信長は尾張への侵攻を始めた今川義元と桶狭間の戦いを迎え、少数の軍勢で大軍に勝利したことでその名を全国に知らしめ、天下統一へと進み始めます。

戦国時代としては珍しい実力主義による人材登用や現実的な判断に基づく合理主義だった織田信長の周囲との衝突は、家督争いの段階から始まっており、最期を迎える本能寺の変まで、さまざまな形で史実として残されています。

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