織田信長が行った伊賀攻めとは?

伊賀国は多くの地侍による自治が進んでいたため、伊賀守護を務めていた仁木氏の支配力は弱く、伊賀忍者の存在もあり、織田信長でさえ進攻を躊躇したといわれています。

甲賀忍者と対比される伊賀忍者は、金銭による契約以上の関係を雇用主に持つことがなく、裏切りや脱走などについての処断にも躊躇がない残酷な精神性も有しています。

そのため、北畠の養子となった織田信長の次男信雄が、伊賀忍者の下山甲斐による伊賀の情報をもとに、伊賀攻めを独断で決め8000の軍勢によって侵攻しますが、その侵攻情報も伊賀側に伝わっていたため、伊賀忍者の奇襲やゲリラ戦法などによって、敗走せざるを得ない状況となります。

この大敗を受け、織田信長は次男信雄を勘当するというほど激怒し、その一方で、伊賀攻めを急ぐことはなく万全の態勢を整えます。

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織田信長にとっての伊賀国の存在は?

織田信長にとって、伊賀国には有力大名が存在せず、地侍による自治が進んでいる独立国に近い存在であったために、平定を後回しにしたと考えられます。

そのため、北畠家の養子に出した次男信雄が1579年に独断で8000の軍勢で侵攻した伊賀攻めでの大敗の報告を受けた織田信長は激怒しながらも、即座の報復の戦さを行なっていません。

織田信長の次男信雄が、伊賀忍者の下山甲斐の裏切りによる情報で伊賀攻めを決め伊賀国の三方から侵攻したものの、伊賀側にも侵攻情報が漏れ、伊賀忍者による夜襲や奇襲、ゲリラ戦法が大敗した原因となってしまいます。

北畠家の養子となった次男信雄が、織田信長に無断で進攻の決断をしたことも、伊賀国の判断を誤る原因ともなったようです。

準備万端の軍勢に信雄を指揮官の一人にした第二次伊賀攻め

織田信長は次男信雄が伊賀攻めに大敗したことから、甲賀忍者を道案内や情報獲得のために利用しながら、二年後の1581年になると、信長は4万5000人の大軍で信雄を伊勢地口から、丹波長秀らを拓殖口から、蒲生氏郷を玉滝口から、筒井順慶を笠間口から、浅野長政を初瀬口から、堀秀政を多羅尾口からと6カ所からの侵攻をはかります。

織田信長の軍勢の侵攻には、甲賀忍者の多羅尾光俊と伊賀忍者の離反者を活用し、次男信雄の大敗を教訓として大勝を得ようとしています。

伊賀国の人口が半減したといわれるほどの殺戮が繰り返されたのには、地侍が多数存在していたことが原因と考えられ、残党も徹底的に殺戮されており、柏原城が開城した時点を持って天正伊賀の乱は終わりを告げます。

伊賀攻めの後には、織田信長自身が伊賀国を視察に訪れ、滝川雄利と織田信兼のそれぞれに領地を褒美として与えています。

織田信長にとっての伊賀攻めは?

織田信長にとっての伊賀攻めは、北畠家の養子となった次男信雄の無断での侵攻がなければ、時期をみて万全の態勢がとられていたであろうと推測されるほど、伊賀国は有力大名の不在と伊賀忍者の存在による奇襲やゲリラ戦法などが駆使されるため、大軍での侵攻では対応が難しいものだったと想像されます。

そのため、信雄による独断での兵の侵攻による敗走は、織田信長が激怒するのも無理はなく、とはいえ、伊賀攻めを急ぐこともなく冷静に軍勢を整えた上で徹底した殺戮が行われたのには、最初での敗北を教訓としたためかもしれません。

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