織田信長が南蛮貿易を行なった理由は?

1543年に中国の貿易商人であった王直の船が種子島に漂着し、その船にポルトガル人が乗船していたことがきっかけとなり、南蛮貿易がはじまります。

現在の日本の状況とは違い、戦国時代には海外との接点は少なく、欧州人の存在はもちろん、当時の最先端技術に驚嘆した武将たちは、外国の文化や技術に驚嘆し、貿易によって手に入れようとしたと考えられます。

特に、長篠の戦いにおいて大量の鉄砲を実践使用した織田信長は、海外の文化や当時の日本にはない品々に興味と理解を示したとされ、南蛮貿易に力を入れたとされます。

織田信長が、宣教師たちとの交流をもち、キリスト教の布教活動を認めるまでして、南蛮貿易を重視した理由などを紹介します。

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織田信長が南蛮貿易を重視したのは?

戦国武将の中でも織田信長は、独自の感性を持ち、それまでの曖昧な慣習やしきたりを疑い、新しいものへの好奇心が強かったといわれています。

織田信長は、南蛮貿易で伝えられた鉄砲を戦いに取り入れたり、自分の鎧に西洋兜を使用するなど、海外の新しい技術や道具を利用した軍備強化をはかっています。

楽市楽座や関所の廃止によって、市場経済を自由にすることで、国内の経済が活性化すると考えていた信長ですから、南蛮貿易を行うことで、海外からの新しいものを取り込むことが市場の活性化につながるとも考えられます。

また、織田信長の天下統一の障害には、対立する武将たちに加えて、戦国大名と同程度の戦力を有する仏教勢力があり、南蛮貿易を行うための前提条件となる宣教師の受け入れによって、仏教勢力を牽制する意味もあったと考えられます。

織田信長が南蛮貿易で取引したのは?貿易の拠点には?

織田信長が南蛮貿易で取引したのは、長篠の戦いでも有名な鉄砲を筆頭に、使用に欠かせない火薬や硝石を輸入しています。

そのほかにも、生糸や絹織物なども輸入したと考えられ、その一方で、石見銀山の銀や硫黄、陶磁器などが輸出されています。

織田信長と面会した宣教師が連れていた黒人の奴隷に興味を持った信長は、その黒人を自分の家臣として迎え入れ、弥助という名前を与えて、側においています。

織田信長は、大阪の堺を南蛮貿易の拠点をしますが、それには、堺が当時の日本での海上交通の拠点であったことに加えて、堺には種子島に伝来した鉄砲の技術を学んだ鍛治職人が多数いたことも大きな理由と考えられます。

織田信長にとっての南蛮貿易の意義は?

戦国武将の中でも好奇心と先見性を兼ね備えていた織田信長は、南蛮貿易で得られる海外の文化や最先端の技術や道具に興味と理解を示したと考えられます。

尾張国の領地経営に経済の活性化が必要と考え、楽市楽座を実施する経済センスをもっていた織田信長が、南蛮貿易によって海外の新たなものを取り入れて、より活性化をはかるとともに、宣教師たちによるキリスト教の布教で、仏教勢力を牽制する意図があったと考えられます。

織田信長にとって南蛮貿易は、鉄砲による戦いの変化をもたらしただけでなく、経済の活性化と仏教勢力を押さえることも目的としたと思われます。

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