戦国時代の大名家に誕生した子供の生育環境は今とは違い、両親に変わって養育や教育を行う乳母や傅役という存在の家臣がいました。
織田信長の乳児期にも、乳母の乳首を噛み切って何人も交代したという話が残され、幼少期から気性の荒い子供だったことが伝えられています。
織田信長の乳母や傅役のなかでも、平手政秀は、信長の父信秀の死去後、織田家中が不穏となる中で自刃したことでも有名です。
戦国武将の嫡男として誕生した直後から織田信長の傅役として傍にいて、自刃した平手政秀について紹介します。
平手政秀とは、どんな人物だったのか?
平手政秀は、1942年5月に平手経秀の子として尾張国に生まれ、織田信秀と信長の親子二代に仕えた志賀城の城主です。
織田信秀の重臣として、主に外交面で活躍し、茶の湯や和歌にも通じた文化人であり、信長の茶の湯の関わりも平手政秀の影響といわれています。
平手政秀42歳の時に、織田信長の誕生で傅役に就任し、織田家の次席家老も務め、沢彦宗恩を信長の教育係として美濃から招いています。
平手政秀には、伊勢神宮外宮造営のための寄進や、織田信長の初陣の後見役、美濃との和睦成立や信長と濃姫の婚約といったことに功績を残しています。
織田信長が生まれた直後から、尾張の大うつけと呼ばれていた頃の信長を側で見続けた人物で、その死の原因にも信長の奇行を諌めるためといわれますが、明確な理由は判明していません。
平手政秀の自刃の理由には?
平手政秀の自刃の理由には、織田信長が父信秀の葬儀の場に湯帷子姿で馬に乗って現れ、抹香を投げつけるなどの奇行を憂い、自身の死をもって諌めるためとする美談が一般的ですが、そのほかにも説があります。
平手政秀の息子、平手五郎右衛門の所有する駿馬を信長が所望したことを拒否したことで、信長の怒りをかったためとする説や、織田信秀の死による織田家家督相続に信行を推す林秀貞、通具や柴田勝家らとの対立が自刃の理由とする説などがあります。
平手政秀が亡くなっても、織田信長の素行は変わらなかったものの、政秀のために政秀寺を建立して菩提を弔っており、いずれの理由だったとしても、信長にとっては政秀が自刃するとは思っていなかったことが推測できます。
織田信長が、茶の湯や能楽といった文化的な嗜みにも長けていたのには、傅役に就任していた平手政秀の存在が大きく、尾張国の大うつけの教育役としての役目を果たした人物と言えます。
天下人となる素地を形成した傅役の平手政秀?
戦国武将としてはじめて天下統一を目指した戦いを演じた織田信長の基盤を作ったのは、幼少期から傅役として側にいた平手政秀といえます。
織田信秀と信長の親子二代に渡って仕えた平手政秀は、信長の傅役として、乳児期から信長に接し、初陣の際にも後見役となり、濃姫との婚約にも功績を残しています。
60歳を過ぎた政秀が自刃したのには、織田信長の奇行を諌めるためといわれていますが、明確な史料は残されておらず、その真実は闇の中といえますが、信長のその後の武将としての功績に影響を与えていると思いたいものです。