戦国時代にお互いの存在を意識し合いライバル関係にあった織田信長と武田信玄には、ひと回り以上の歳の差があります。
1521年に生まれた武田信玄と1534年に生まれた織田信長の両者にとって、治める領地の場所の関係や目指した戦国時代の有力大名としての姿に違いがあり、天下布武を掲げた織田信長と風林火山を旗印にした武田信玄は、戦いを想定しながらも避けていたと考えられます。
織田信長が桶狭間の戦いによって今川義元の大軍を破ったことで、武田信玄が信長の存在を意識せざるを得ない状況になったと思われ、同盟関係を模索したようです。
戦国時代における二人の天才軍師でもあった織田信長と武田信玄の二人の関係や、二人の戦いについて紹介します。
織田信長と武田信玄の関係には?
織田信長と武田信玄は、書簡や家臣の伝達によるやりとりを中心とした関係を築いていて、残された書簡には、信長が信玄に対して媚びたような文言も確認されています。
戦国時代において最強といわれた騎馬隊を組織していた武田信玄は、「風林火山」を旗印に掲げて甲斐国を本拠地とした関東一円を支配下においた戦国武将であり、ひと回りも年下の織田信長を意識したのは、今川義元を破った桶狭間の戦い以降だったと推測できます。
織田信長の美濃への侵攻、武田氏の上杉氏との抗争による三河の徳川家康の独立で、織田信長と武田信玄の外交関係がはじまり、信玄の信長に対する敵対意識が感じられるものの、積極的な戦いをする動きはなく、中立した立場を継続しています。
武田信玄の嫡男義信が謀反を起こしたことで廃嫡となり、家督相続した武田勝頼の元に織田信長の養女が正室として迎えられて、信長と信玄が同盟関係を結んでいます。
同盟関係の破綻と武田信玄の死の影響は?
織田信長の朝倉討伐のための戦いで、浅井長政の裏切りによる敗走を余儀なくされた金ヶ崎の戦いをきっかけに信長包囲網が形成されるものの、その後の姉川の戦いなどでも、武田信玄が戦いに臨むことはありません。
織田信長と武田信玄の同盟関係は、秋山景虎が三河の徳川家康へ攻め込もうとした上村合戦において、織田信長と同盟関係にある徳川家康の三河へ信玄が侵攻させたことで破綻します。
しかも、仏教信者であった武田信玄にとっては、織田信長の比叡山延暦寺の焼き討ちに対しても怒りは頂点に達していたと考えられ、ふたりの戦いは必然となっていました。
武田信玄が織田信長との直接の戦いまでの兵力の消耗や長期戦を嫌い、三方ヶ原の戦いには実質2時間程度で武田軍が勝利しているものの、三河への侵攻は翌年に持ち越され、東三河の野田城を包囲しています。
野田城の攻防戦の長期化によって、武田信玄の持病が悪化したと考えられ、甲府へ撤退したため、織田信長との直接の戦いは行われていません。
織田信長と武田信玄のライバル関係には?
織田信長と武田信玄の関係には、ひと回りも違う歳の差に加え、戦国武将として目指す姿の違いが感じられるものの、軍師としての能力を両者が認めていたと考えられます。
そのため、信長と信玄が戦いをできるだけ回避した形跡がうかがえる史実も多く、書簡のやりとりにも、信長の必要以上に媚びたともいえる文面が残されています。
天下統一を目指した織田信長と武田信玄との戦いは、信玄の持病の悪化により現実とはなりません。