織田信長が尾張国を統一し、天下統一のために宇喜多・毛利氏の勢力圏であった中国地方へ羽柴秀吉を指揮官として、1577年以降約6年にわたって中国攻めをしています。
中国攻めの最終段階に差し掛かっていた時期に、織田信長は明智光秀の謀反により本能寺で横死したため、秀吉と毛利の間で和議が結ばれます。
織田信長による中国攻めを開始する以前には、阿波を本拠地とする三好氏に対する牽制の意味もあり、友好関係を維持していましたが、信長の上洛以降、包囲網が形成されるなどの変化が起こります。
中国地方で勢力を誇っていた毛利氏との戦いの指揮をとっていた羽柴秀吉の援軍要請を、本能寺の変で織田信長が横死により頓挫した中国攻めに関して紹介します。
織田信長が中国攻めを開始するまでの状況は?
織田信長が拠点としていた尾張国からは、中国地方で勢力を誇っていた毛利氏の領地との距離は遠く、三好氏を牽制する意味からも両者は友好関係を保っていました。
そのため、毛利元就の死去の際には、信長は使者を派遣して哀悼の意を表していますが、友好関係は石山本願寺との合戦において、毛利輝元が本願寺側に加勢したことにより崩れ、対立がはじまります。
1577年に毛利が播磨への侵攻を本格化したため、織田信長が、羽柴秀吉を指揮官として中国攻めを命じ、黒田官兵衛の居城としていた姫路城を拠点として中国攻めを始めます。
但馬では、岩洲城と竹田城の戦いを制し、播磨では、説得と調略を駆使して大半を信長の味方につけ、播磨一帯を手中に収めます。
織田信長が中国攻めを有利にできたのは?
織田信長の中国攻めを有利にできたのには、羽柴秀吉による播磨国衆の多くを約二ヶ月ほどで掌握し、信長の鉄甲船による毛利水軍の撃破という戦いにおける侵攻のスピードにあります。
三木城の攻略、宇喜多直家の降伏、鳥取城の陥落と山陽と山陰の拠点を次々に抑えたことで、織田信長が毛利に対して優位な立場を確保します。
1577年から約6年をかけて、中国攻めを進めてきた羽柴秀吉を指揮官とした軍勢が、総仕上げとして備中高松城の戦いに臨みますが、毛利からの4万の援軍の接近により、秀吉も信長に対して援軍を要請するために明智光秀を送り、高松城を水攻めにして動きを封じます。
秀吉の水攻めにより、高松城内と毛利の援軍も身動きが取れない状況となりますが、その最中に、明智光秀による本能寺の変が起き、秀吉は毛利との和睦を結び、京へ向かいます。
そのため、織田信長による中国攻めは頓挫することになり、信長の元に駆けつけた秀吉の行動が、のちに「中国大返し」と呼ばれています。
織田信長の中国攻めの頓挫には、明智光秀の謀反が原因に!
織田信長が中国攻めを指示したのは、天下統一への過程の一つですが、信長が争っていた石山本願寺に加担し、播磨への侵攻を進めたことがきっかけとなっています。
中国地方で勢力を誇っていた毛利氏や宇喜多氏を制圧するために、指揮官となった羽柴秀吉は約6年をかけて戦っており、その間、さまざまな勢力との戦いや謀略を駆使しています。
しかしながら、中国攻めの仕上げともなる高松城を水攻めにした段階で、本能寺の変での織田信長の横死が知らされたことで、秀吉は和睦を結ぶことで、中国攻めを収束させ、「中国返し」を演じます。