織田信長には、神仏に対する畏怖の念がないイメージがもたれますが、桶狭間の必勝祈願に熱田神宮に祈願しており、その御礼も奉納しています。
織田信長は、神仏への畏怖の念をもちながらも、仏身に身を捧げるべき僧侶をすべて敬愛していたわけではないことが、延暦寺の焼き討ちでもわかります。
平安時代を生きた空海は、弘法大師という名前でも知られる真言宗の開祖で、織田信長とは生きた時代も場所も違いますが、意外な共通点があります。
共通点が感じられない織田信長と空海の意外な共通点を紹介します。
織田信長と空海の仏神での共通点は?
織田信長と空海の生きた時代は違うものの、ふたりの仏神での共通点には、熱田神宮と高野山があります。
熱田神宮には、手水舎の北側に空海のお手植えといわれる樹齢1000年以上の大楠があり、織田信長が桶狭間の戦いでの勝利の御礼として奉納した信長塀があります。
また、空海が入定した高野山の奥の院の霊廟の側には、一度は高野山を攻めた織田信長のお墓があります。
織田信長に対して謀反を起こした明智光秀も、豊臣秀吉も、多くの有名な戦国武将たちのお墓があり、空海が開いた高野山の懐の深さが感じられます。
織田信長と空海の意外な嗜好での共通点は?
織田信長と空海の意外な嗜好での共通点と言われているのは、男性同士が関係を持つ衆道です。
日本の衆道の元祖ともいわれる空海は、唐から日本に持ち込んだといわれ、鎌倉時代の随筆「徒然草」にも稚児を誘い出す法師として空海が描かれています。
織田信長の傍らに美少年の森蘭丸を常に伴っていたことで、衆道の嗜好があったといわれていて、空海との共通点といえます。
平安時代を生きた空海の僧侶としての環境と織田信長が生きた戦国時代の環境において、女人が立ち入れない状況に類似点があったために生じた嗜好だったのかもしれません。
織田信長と空海の時代を越えた共通点
織田信長と空海の生きた時代は、平安時代と戦国時代とまるで違い、過ごした場所も違いますが、熱田神宮に残る大楠と信長塀がふたりのつながりを感じさせ、空海の開いた高野山にお墓があることも縁を感じさせます。
空海が唐から持ち込んだとされる衆道は、当時では珍しいことではなく、後の時代にも受け継がれ、織田信長が森蘭丸を衆道の対象として扱ったという推測がされています。
空海の僧侶としての女人との交わりを禁じられた環境下と、織田信長の戦場での環境下での衆道の嗜好への系統は共通していたのかもしれません。