戦国時代の戦さといえば、刀や薙刀を振り回して戦う武者たちが想像でき、そのため武将たちの剣術の腕前は生き残りのためにも重要だったと考えられます。
戦国時代には、脇差しと打刀を同時に携帯する武士が増え、日本刀で戦う武術である剣術の各流派が誕生しています。
剣術の流派として、一刀流、小野派一刀流、陰流、霞流、京八流、佐々木巌流、示現流、新陰流、神影流、新当流、タイ捨流、中条流、天流、二天一流、宝蔵院流、微塵流、柳生新陰流などが戦国時代に存在し、開祖や戦国期の達人たちがそれぞれの流派において存在しています。
戦国時代に火縄銃の利用によって、新たな戦い方を模索した織田信長の剣術への考え方や剣術の腕前などについて紹介します。
戦国時代での剣術の習得には?
戦国時代の剣術は、戦場での総合的な戦闘技術の兵法のひとつとして捉えられ、甲冑を装着した武者同士の太刀による戦闘においては、鎧の隙間を狙う戦法が求められ現代の柔道や合気道の源流ともなる介者剣術と呼ばれるものが使われていました。
戦国時代では、江戸時代のように各大名家に仕官して兵法指南役として剣術を教授する形態ではなく、剣術指南者が諸国を廻って指導したと考えられます。
戦国武将に求められる剣術には、大軍を擁して戦う兵法と大将として必要な護身術となる剣術を身につけておくことが必要だったと考えられ、体系付けられた剣術を収めた武将は少ないと思われます。
新し物好きで、幼少期から青年期にかけて「尾張大うつけ」と呼ばれた織田信長が、剣術の免許皆伝を取得していたとは考えにくく、客観的な腕前は判断できません。
織田信長の戦績から推測される剣術の腕前は?
戦国時代の戦さでは、総大将が討ち取られれば終わりですから、大軍を従えた戦いで織田信長が最前線で戦うことは少なかったとはいえ、他の武将に比べて前線に立った記録が残されています。
村木城の戦いでは、織田信長みずから火縄銃を放って攻撃しており、稲生の戦いでも、敵方の武将の一人である林美作守を自ら組み伏せて討ち取ったといわれています。
桶狭間の戦いでも、織田信長が槍を持って前線で指揮した記録があり、天王寺の戦いでは手傷を負ったことも「信長公記」などに記述されています。
織田信長の剣術の腕前を客観的に評価するものはないものの、戦国武将に必要な護身のための剣術を備え、槍や火縄銃の取り扱いには自信を持っていたと考えられます。
織田信長にとっての剣術とは?
織田信長にとっては剣術の流派の免許皆伝などには興味がなく、大軍を率いた戦国時代の戦い方では、ひとりでの剣術による戦法には古臭さを感じていたのかもしれません。
織田信長の戦さの状況などを記した「信長公記」などにも、戦場の最前線での戦いや稲生の戦いで敵方の武将を討ち取ったことがあり、それなりの剣術の腕前は身につけていたと思われます。
特定の剣術を修めた記録は確認できないものの、「尾張大うつけ」と呼ばれた時期を過ごした織田信長は、ケンカ剣術のようなものを独自に習得していたのかもしれません。