戦国の世では頻繁に起きた下克上や謀反ですが、その中でも、織田信長が明智光秀により自害に追い込まれた本能寺の変が最も有名かもしれません。
少人数で君主や主人を暗殺する謀反ですが、本能寺の変は、まさに織田信長の家来である明智光秀が主君に対して、いきなり反旗を翻して寝込みを襲ったのです。
なぜ、明智光秀が織田信長に謀反を起こしたのか、真実は定かにはなっておらず、さまざまな歴史学者などの専門家の間でも諸説あるようです。
本能寺の変の経緯や、明智光秀が謀反に至る背景を紹介します。
織田信長の最後となった本能寺の変とは?
織田信長の最後となった本能寺の変とは、1582年6月21日の早朝に京都本能寺において、織田信長が明智光秀の襲撃を受け、寺に火を放ち自害した事件です。
本能寺の変が起こる前の1582年3月に甲斐の武田勝頼を倒した織田信長は、手勢の僅かな供廻りのみをつれて帰国の途についており、その道中での京都の滞在先の一つであった京都本能寺ですが、単なる寺ではなく、堀や土居、石垣、厠などに至るまで織田信長の滞在施設としての機能面を考慮したものです。
そのため、本能寺滞在時の警戒にあたる兵士は、約100名程度しかいなかったともいわれ、本能寺討ち入りに向かった明智光秀の1万3000人の手勢は、想定外であったと考えられます。
天下統一まであと少しとなった段階で、明智光秀が謀反を起こした本当の理由は明確になってはおらず、さまざまな説が登場しています。
織田信長と明智光秀の関係性に原因が?
織田信長は、当時としては珍しい人材活用をしており、現代では当たり前になっている実力評価主義によって、責任者に登用しており、羽柴秀吉や明智光秀がその筆頭にあげられます。
織田信長の家臣には、自分で判断し決断することが求められる一方、織田家のために信長が発した命令には、家臣が従順に従うことを強要しており、土地や資金などの褒美をとらせることで納得させていたようです。
しかしながら、当時の領地の保有について永劫性をもっていたと考えられる明智光秀と織田信長との間には、埋めがたい理解の違いがあったと想像されます。
織田信長が信頼して抜擢した家来である羽柴秀吉と明智光秀ですが、織田信長のサイコパス的な性格と合理主義を受け入れることが難しくなって起きた明智光秀の謀反であったのかもしれません。
そのため、内情に精通した明智光秀が、1万3000人の手勢をつれての本能寺討入には、計画性が感じられます。
■明智光秀が織田信長に反旗を翻した本能寺の変
明智光秀が織田信長に対して反旗を翻した本能寺の変は、甲斐の武田勝頼を倒した凱旋中の1582年6月21日に起きています。
甲斐の武田を自害に追い込んで織田信長の天下統一が目前になった段階を狙ったように、明智光秀が本能寺に討ち入りを仕掛けた計画性が感じられ、それまでの信長と光秀の関係性において積もり積もったものが想像されます。
しかしながら、明智光秀が織田信長を討った本当の理由は解明されておらず、専門家の間でもさまざまな説があり、真実は光秀本人にしかわからない歴史のミステリーです。