戦国武将には、大将としての戦さの戦略や武運、武術など多岐にわたる能力が必要とされますが、領地を経営する経済センスが、戦さをする資金の調達にもつながります。
織田信長は、他の武将とは違う経済センスを持ち合わせていたと推測でき、お金持ちの戦国武将だったといえます。
長篠戦いでは、当時はまだ高価だった鉄砲を3000丁も準備していたといわれ、居城とした城も他の武将とは違い、その勢力に応じて、移り住んでいます。
織田信長が、金持ち武将と成り得た理由や彼の行なった経済政策などを紹介します。
織田信長が国力を強化できたのは?
戦国武将の経済的な力を示す石高を比較すると、織田信長が700万石、豊臣秀吉も700万石、徳川家康が400万石、武田信玄が130万石、上杉謙信が145万石と推定されます。
戦国大名の石高は、その領地内の土地での米穀の収穫量を示しており、土地の生産性ともいえ、庶民からの徴税が大名にとっては収入源ともなります。
戦国武将の下級家臣の多くが、農業に従事しながら兵士として主君に仕えていて、農繁期での戦さは、石高を減らすことになり、長期の戦いは国力を疲弊させることになります。
これを避けるために、織田信長は、家臣団を農業に専任するものと、戦いに専任する兵士を分けて家臣団を形成し、兵士には月々の給金を支払うという兵農分離の政策をとります。
兵農分離で、石高を落とすことなく、国力の低下も避けることができる一方で、給金の支払いが伴うため、お金が必要となります。
織田信長が金持ち武将となれた経済政策は?
兵農分離による兵士へのお金の支払いを賄うためには、庶民からの徴税額を増やすために、楽市楽座により、それまで座に加入しないと商売ができなかった権益を排除し、誰でも自由に城下で商売ができるようにし、売上税率を見直すなどして、経済を活性化し、結果として徴税額を増やすことに成功しています。
織田信長は、日本の海上物流の拠点である堺を抑えることで、日本国内の物流に加えて南蛮貿易での利益も期待できたわけです。
また、お金の流通にも、粗悪な銀貨や偽銭の流通を排除するため、お金の価値基準を明確に定めた撰銭令を実施し、円滑な経済の活性化をはかっています。
織田信長が、金持ちの戦国武将となれたのには、領地内の石高を安定させるための人材活用と、楽市楽座や流通拠点の確保と撰銭令による貨幣基準の明確化によって、経済が活性化できたことで、徴税額を増やすことができたためです。
しかも、戦国時代には、武将同士の戦いによって領主の入れ替わりが激しく、庶民が誰に徴税を支払えば良いかという迷いをなくすために、居城を明確にしています。
そのため、織田信長は勢力を拡大するごとに、居城を移り変えながら、確実な徴税と商売での益を享受することができ、金持ち武将となっています。
織田信長が金持ちの武将だったのは、経済センス?
織田信長は、戦国武将の中でも珍しく、居城をいくつも移り変えて勢力を拡大しています。
領内の経済活性化のために、座の既得権益を排除するために楽市楽座を行い、自由な商売を可能にし、流通拠点となっていた堺を抑えることで、南蛮貿易も可能にしています。
領主としての存在を示す居城を明確にすることで、活性化された市場からの徴税も円滑に行って、金持ち武将となっています。
金持ちの戦国武将であった織田信長だったから、他の武将にはできなかった鉄砲の大量保有や鉄船の造船が可能であったと考えられます。
