織田信長と安土城下町のかかわり

1576年の天正4年に築城された安土城は、織田信長が天下統一を目指した拠点として、安土城下町の全体像に構想を抱いて作られています。

現在の城郭は、元あった古い町並みを利用しているために、城との位置関係に多少ずれがあります。

安土城下町については、フロイスが記した「日本史」に、その町並みの綺麗さや神学校や教会の存在などが記されています。

織田信長の天下統一が本能寺の変で頓挫したことで、日本の首都となりそこなった安土城と安土城下町について紹介します。

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織田信長が天下統一の拠点とした安土城

織田信長の居城は、信長の武将としての勢力拡大に従って那古野城、清洲城、小牧山城、岐阜城、安土城と変えています。

尾張国を統一した信長が、美濃への侵攻に成功した1567年に稲葉山城を岐阜城と改名し、地名も岐阜として、天下統一への足場を固めます。

その後、天下統一にあと一息となった天正4年に信長の最後の居城となる安土城が築城され、日本の城郭に初めて天守が作られた城となり、絶対的な権力を示した造りです。

安土城は、大手前の広い土地が残されており、そこに広がる安土城下町まで含めて構想が練られていたと推測できます。

織田信長が描いた安土城下町とは?

織田信長の最後の居城となった安土城は1576年に築城され、1582年に明智光秀の謀反により本能寺の変で信長が横死し、その3年後に消失しており、その全容は解明されていません。

戦国武将として初めて天下人となった信長を象徴する天守を有する城として築城され、安土城下町を構築するために、準備された大手前の広大な土地が活用される前に信長が横死しています。

宣教師フロイスが記した「日本史」には、安土城下町には神学校や教会が建てられ、楽市楽座によって人が全国から集まり賑わっていたことや、街道が常に掃き清められていたことなどが記されています。

また、大手前の広大な土地が残されていたことが、信長の安土城下町の展開を考えていたと思われ、本能寺の変がなければ、安土城下町は首都の町となる場所でした。

織田信長が天下統一後の首都の町と考えていた安土城下町

織田信長は戦国武将の中でも、その勢力に応じて居城となる城を移動した武将で、天下統一後の首都として安土城を築城したと考えられます。

安土城の大手前には、広大な土地が残され、信長がその土地を活用した街を展開しようとしていたことが推測できます。

安土城には、日本の城郭として初めて天守が作られた城となっており、信長の絶対的権力を示しており、安土城下町は、信長の横死がなければ首都となるはずの場所でした。

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