織田信長といえば、火縄銃を初めて実戦の戦いで使用したり、それまでの既得権益を排除して自由に商売ができるように楽市楽座を行うなど、武芸や戦略の功績があげられます。
その一方で、父の織田信秀や傅役の平手政秀が、和歌の会や茶会を開催するなど、織田信長は、武術一辺倒の武将として育てられた環境ではなかったと考えられます。
織田信長と茶道の関わりは、足利義昭を奉じて上洛した後に、居城とした岐阜城で行われた茶会の記録が、言継卿記に記されています。
織田信長の幼少期に、父信秀と傅役の平手政秀が与えた茶道と信長との関わりについて紹介します。
織田信長と茶道の関わりには?
織田信長は、茶道そのものではなく、茶会に使用される茶道具の名品や銘物の文化的な価値に着目し、それらの品を財宝として取り扱う「茶の湯」を構築しています。
松永久永からの「九十九髪」、今井宗乃からの「松島の壺」「紹鴎茄子」といった価値の高い茶器を献上されたことで、織田信長の価値観に合う茶道具を収集する「名物狩り」を松井友閑や丹波長秀に命じています。
織田信長は、名物狩りによって収集された茶道具を茶会で披露し、それら茶道具を保有することのステータス性を持たせ、家臣団の褒賞としての価値を高めます。
それにより、戦さにおける褒賞として与える領地の不足を解消する狙いもあったと考えられ、織田信長が領地と茶道具に同等の価値を結びつけています。
武田攻めの褒美として地位と領地を与えられた滝川一益は、茶器をもらえなかったことに愕然としたという逸話も残されています。
織田信長が変えた茶道具の価値
千利休が伝えた侘び茶は、素朴な茶道を継承していましたが、織田信長の名物狩りや、茶会での披露によって、茶道具のもつ価値が変化します。
戦国武将の武功による褒美として与えられていた領地や地位以外の褒賞として、茶道具を保有することに褒美としての価値を転換させ、茶道の文化的な価値向上もはかっています。
織田信長の配下である柴田勝家、丹波長秀、明智光秀、羽柴秀吉、織田信忠の五人には、茶会を開くことが許され、ほかの家臣には茶会を開くことが許されなかったので、茶会を開くことが織田家の重鎮としての証ともなっていました。
織田信長が変えた茶道の価値とは?
織田信長が火縄銃で戦い方を変え、楽市楽座で商売の仕方を変え、村田珠光が始めた「侘び茶」という茶道の素朴さを武将のステータスへと変えています。
織田信長の茶頭として仕えた千利休は、侘び茶を継承しており、その茶道は村田珠光と同様に素朴さを基本としていましたが、織田信長の名物狩りや茶会での茶道具のお披露目によって、茶道具の価値が武功での褒賞のステータスへと変化します。
織田信長の名物狩りによって収集された茶道具の名器は、本能寺の変を回避できた多くを豊臣秀吉が引き継ぎ、その後は徳川家康とさまざまに引き継がれています。