織田信長の金の像はどこに?誰が作ったの?

織田信長が斎藤龍興との戦いに勝利し、岐阜の金華山にあった稲葉山城に入城して「岐阜城」と改名し、城下町で楽市楽座による商業の活性化を推進するなどしています。

織田信長と岐阜の関係は深く、2017年には岐阜市では「信長公450プロジェクト」と称した官民一体での情報発信がなされています。

また、岐阜との密接な関係を示すかのように、織田信長の金の像が岐阜にあります。

織田信長の金の像がある場所や、誰が何の目的で建てたのかなど紹介します。

織田信長の金の像は、どこにあるの?

織田信長の金の像は、JR岐阜駅北口前広場に建立されており、駅二階の改札を出て北口を出ると駅前広場が広がり、奥に金華橋通りが見えます。

織田信長と岐阜は、金華山にあった稲葉山城に入城し、岐阜城と命名したことが直接の関わりの始まりですが、斎藤道三の義理の息子である信長とは深い関係がある場所です。

織田信長の金の像は、岐阜市政120年を記念して、2009年9月に市民の寄付によって建立されています。

岐阜駅前広場に建立された織田信長の金の像は、台座まで8メートルの高さがあり、マントを羽織り、鉄砲と西洋兜を左右の手に持った立ち姿を金箔3層ばりの3メートルの像に仕上げられています。

織田信長の金の像は、誰が何の目的で建立したの?

織田信長が岐阜の名付け親であることから、岐阜駅前に建てることは不思議ではないものの、市政120年を記念して建てられているのに、その費用3000万円を市が負担せず、「信長公の銅像を送る会」という団体による寄付金で作られています。

「信長公の銅像を送る会」は、地元の企業のトップ達が発起人となっており、その中心となっているのは、岐阜新聞と推測できます。

岐阜では、中日新聞と岐阜新聞がシェアをめぐって対立関係にあり、長良川での花火大会に対抗した大垣の花火大会の開催など、両社の意地の張り合いが、市内の交通渋滞を引き起こすなど、市民生活への影響も及ぼすほどです。

織田信長の金の像を撮影した際に、背景として写り込む看板を見ることで、その建立された意図が垣間見れます。

織田信長が命名した岐阜の玄関口にある金の像

岐阜の鉄道の玄関口となるJR岐阜駅北口前広場には、岐阜の名付け親である織田信長の金の像が建てられています。

織田信長の像は各地に建立されていますが、像の全身が金箔張りとなっているものは岐阜駅前だけで、その費用は3000万円必要だったとされ、岐阜市政120年を記念して2009年に建てられています。

その建立費用は、市政からの負担ではなく、「信長公の銅像を送る会」という団体からの寄付で賄われ、中日新聞と岐阜新聞のシェア争いによって建立されたと推測されます。

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