織田信長のお墓は本能寺にあるの?

戦国武将の織田信長が、家臣の明智光秀が起こした謀叛である本能寺の変で自害したことを知る人は多いものの、お墓を知る人は少ないかもしれません。

織田信長が本能寺の変で自害したと推測されるものの、明智光秀の軍勢が捜索したにも関わらず遺骸が発見されていません。

戦国武将のお墓が複数存在することは珍しくないものの、遺骸の発見に至っていない織田信長ですから、お墓が各地に点在しています。

各地にある織田信長のお墓、廟所、供養塔などについて紹介します。

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織田信長の墓所には?

織田信長の墓所には、本能寺、阿弥陀寺、大徳寺総見院、大雲院、妙心寺玉鳳院、建仁寺本坊、今宮神社、建勲神社、聖隣寺、高野山金剛峰寺、西光寺、安土城内総見寺、南宋寺、崇福寺、総見寺、総見院、長興寺、織田劔神社、泰厳寺、端龍寺、本門寺が挙げられます。

各地に点在する織田信長の墓所ですが、それぞれに信長の太刀や肖像画などの遺品を祀り、供養塔を設けるなどしています。

織田信長が最期を迎えた本能寺は焼失し、豊臣秀吉が現在の場所に移動させていて、織田信長が自害した本能寺跡には石碑が建てられています。

本来のお墓は、本能寺にある信長公廟は本堂の後ろにあり、信長と共に嫡男信忠も戦死していたため、三男の織田信孝が建立したといわれています。

本能寺にある織田信長のお墓の隣には、本能寺の変で戦死した森蘭丸をはじめとした100名ほどの家臣が合祀されたお墓があります。

織田信長を供養したお墓には?

織田信長の最期を迎えた本能寺は、広大な寺域を持ち、城郭を思わせる構造から少数の衛兵での防御が可能と考えられたため、京都での常宿として使用されています。

明智光秀が本能寺には100名程度の家臣が居ないことを知ったうえで、織田信長を襲撃したと考えられ、最後を悟った信長は火を放って自室で自害したとされ、遺骸も発見されていません。

織田信長の遺体が発見されていないこともあり、他の戦国武将とは違い各地で、前述のように多くのお墓が存在しています。

本能寺にあるお墓以外で有名なものには、高野山「奥の院」や豊臣秀吉が織田信長の追善菩提のために建立した大徳寺総見院があります。

豊臣秀吉が建立した大徳寺総見院では、信長の木像を二体造り、一体を火葬して一体を本堂に安置しています。

織田信長の遺体が未発見のために点在するお墓

織田信長が本能寺の変で自害し、その遺体が発見されなかったことで、信長を供養するためのお墓が各地に建立され、その人柄を慕う人も多かった事が示されています。

織田信長が亡くなったひと月後に建立された本能寺境内にあるお墓は、三男の織田信孝が墓所と定め、信長のお墓の隣には森蘭丸をはじめとした100名程度の家臣を合祀しているといわれています。

各地で供養するための織田信長のお墓の存在には、冷酷非道であったといわれる戦国武将の姿だけではなく、信長の人間性を慕う人たちが多数いたと推察できます。

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